公卿たちとの交流
式部が出仕した頃、『源氏物語』は宮中で広く読まれており、一条天皇は「作者は『日本書紀』を読んでいるに違いない」と評したという(そのために「日本紀の御局」という不名誉なあだ名をつけられてしまったが)。また、藤原公任は祝宴の折、式部に「このあたりに若紫(紫の上の幼少時の呼び名)はいますか?」と冗談交じりに呼びかけたという。『源氏物語』には日本の史書のみならず、『白氏文集』『文選』『史記』『論語』など漢学の知識がちりばめられており、当代随一の文化人の審美眼にもかなうものだった。
女房として公卿と交流することも多く、『小右記』の筆者藤原実資が彰子の御殿に出入りする際、取り次ぎ役となったのが式部であった。ちなみに、同書の長和二年(一〇一三)五月二十五日に「越後守為時の娘」と出てくるのが、紫式部が貴族の日記に登場する唯一確実な記録とされる。また式部は、彰子の父道長とも和歌をやりとりする仲で、ある夜、道長が式部の部屋を訪れて戸をたたいたという逸話もある。二人が男女の関係にあったとする説もあるが真相は不明だ。
式部が体験した宮廷生活の様子は『紫式部日記』に克明に描かれている。寛弘五年(一〇〇八)から同七年一月までのできごとを記した日記・消息文で、彰子の初めての出産の様子をはじめ、自身の処世観や人物評などが流麗な和文で記されている。この中で、式部は定子に仕えた清少納言に対して「高慢で利口ぶっている」「漢学の才をひけらかしている」などと酷評しており、少なからずライバルとして意識していた様子がうかがわれる。
式部が宮廷を退いた時期は不明だが、『小右記』の記事から寛仁三年(一〇一九)頃までは出仕していた可能性があるという。晩年の様子や没年はわかっていない。一人娘の賢子は母と同じく彰子の女房を務めた後、後冷泉天皇の乳母となり、従三位に叙せられて大弐三位と呼ばれた。一流の歌人として知られ、女房三十六歌仙にあげられている。