石田三成と徳川家康のやり取り(『戦国時代のタイムライン』より)
石田三成と徳川家康のやり取り(『戦国時代のタイムライン』より)

 もし石田三成と徳川家康がSNSをやっていたら。三成は「無念です……」と辞世の句を投稿していたかもしれない。X(旧Twitter)で歴史上の偉人による架空のタイムラインなどを投稿し大反響を呼んだネット投稿者・スエヒロさん。NHKのSF時代劇『天下人のスマホ』等にも制作協力として携わったスエヒロさんの新刊『戦国時代のタイムライン』(監修:本郷和人東京大教授)より、二人のやり取の一部を抜粋、編集してお届けする。

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徳川家康(以下、家康):ども、徳川家康です。秀吉殿が亡くなったあと、1600年9月に美濃・関ヶ原で行われた合戦が「関ヶ原の戦い」。私、家康が率いる東軍と、石田三成殿を中心とする西軍が繰り広げた戦いで、戦国時代で最も有名な合戦のひとつと言えるな。

石田三成(以下、三成):西軍の石田三成です。この合戦では全国の諸大名が東西どちらかの陣営に分かれて戦ったことから、「天下分け目の戦い」とも呼ばれていますね。当時、五大老・五奉行の仕組みの上に成り立っていた豊臣政権は、秀吉様の死後その体制が揺らぎ始めたのですよね。というのも家康殿が天下取りへの野心を示したことが原因なんですよね。急にギラギラしはじめたといいますか…。

スエヒロ著『戦国時代のタイムライン』(朝日新聞出版)
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家康:ワシが原因か…まあ身に覚えはあるが。当時、豊臣家内部でも対立が生まれており、ワシは秀吉殿の正室・ねね殿と手を結び、一方で三成殿も側室である淀殿と手を結んだのだな。

三成:じわじわと対立構図が出来上がりつつありましたよね。五大老の一人である前田利家さんが亡くなったことも大きかったですし。秀頼様を補佐しながら、家康殿との対立関係を調整してくれていた利家さんがいなくなって、いよいよ対立が表面化しましたよね。私に反目していた加藤清正殿、福島正則殿も家康殿サイドにつくことなり対立はさらに激化。家康殿が会津・上杉景勝殿への討伐軍を起こし、会津に向かった隙を突いて、いよいよ私は挙兵したわけです。

家康:生意気なやつめ…。毛利、宇喜多、島津、小早川といった西国の諸大名と手を組んだ三成殿に対して、ワシも上杉討伐を次男・秀康に任せて東海道から進軍。そして9月15日に関ヶ原において、いよいよ合戦がはじまったのだな。東軍約10万、西軍約8万の軍勢が関ヶ原で対峙。ワシの四男である松平忠吉の軍勢による発砲から合戦は始まったわけだ。三成軍と黒田長政・細川忠興軍が激突、福島正則軍と宇喜多秀家軍も交戦するなど、各所で本格的な戦闘が繰り広げられたのだな。

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