石田三成と徳川家康のタイムライン「関ケ原」の一部(『戦国時代のタイムライン』より)
石田三成と徳川家康のタイムライン「関ケ原」の一部(『戦国時代のタイムライン』より)

三成:激戦のなか西軍の島左近が、黒田長政軍の鉄砲部隊の狙撃により負傷。後陣に退くことになりました。「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と評された左近の離脱は手痛かったです…。

家康:フフフ。三成殿の西軍にはいわゆる「大将」と目されるような武将も存在せず、全体的に足並みが揃っていなかった印象があるな。

小早川秀秋:おじゃまします!小早川秀秋です。その頃、西軍に属していた私は事前に家康殿と内応の密約をしていたものの、なかなか踏ん切りがつかない状況だったのですよね…。裏切るべきか裏切らないべきか…。しびれを切らした家康殿が我が陣営にむかって銃撃してくるに至って、ようやく寝返りを決意したのですが。家康殿、マジ怖い!

石田三成と徳川家康のタイムライン「関ケ原」の一部(『戦国時代のタイムライン』より)
石田三成と徳川家康のタイムライン「関ケ原」の一部(『戦国時代のタイムライン』より)

家康:この小早川秀秋の寝返りが、関ヶ原の戦いにおけるターニングポイントだったのだな。小早川の裏切りによって、西軍・大谷吉継軍は背後をつかれ壊滅し、吉継自身も自害。西軍は一気に総崩れとなっていきよった。

三成:吉継殿まで…。この寝返りをきっかけに形勢が一気に変わりました…。その後、合戦開始からわずか6時間弱で勝敗は決し、西軍は敗走するに至ったわけです。なんともあっけない幕切れでした…。合戦に敗れた私は、逃走を続けましたが、家康殿の命を受けて私を捜索していた軍勢に捕縛されちゃいました。野を越え山を越え逃れていたのですが…。居城である佐和山城も落城。私は大坂・京都と護送されて、小西行長、安国寺恵瓊らの武将ともに斬首されちゃいました。無念です…。辞世の句はこちら。

筑摩江や 芦間に灯す かがり火と
ともに消えゆく 我が身なりけり
────石田三成