両リーグのルーキーの中でも「実力ナンバーワン」の折り紙付きだった村上は78年、先発、リリーフで40試合に登板。リリーフで登板すると、下がり気味の眉がちょうど登板時間の「8時20分」を指しているように見えたことから、“8時20分の男”の異名もとった。
同年は5勝8敗3セーブと負け越したものの、96票で立花義家(クラウン)の82票(総投票数190)を抑えて新人王を獲得した。
だが、チームの低迷期と重なったため、2年目以降後も勝ち運に恵まれず、実働3年で通算14勝25敗5セーブ。最後の2年間は肘の故障で1軍登板のないまま、26歳の若さで引退した。
75年には“江川の再来”と呼ばれる九州の剛腕が注目を集めた。都城農時代の北別府学だ。
1年のときから“大器”と言われた北別府は、バットに当たってもボールが飛ばず、外野までの飛球も1試合にひとつかふたつしかなかったという。3年になった75年春の九州大会1回戦の伝習館戦で大会史上初の完全試合を達成し、“江川2世”の評判も決定的になった。
だが、73年夏の甲子園の銚子商戦で降りしきる雨のなか、サヨナラ押し出し四球で敗れ去った江川同様、北別府も雨に泣いた。
最後の夏、第1シードの都城農は宮崎県大会を順当に勝ち進み、甲子園まであと2勝に迫った。
ところが、準決勝の日南戦は台風接近の影響で2日続けて順延となり、3日目も雨天中止の可能性が高かったことから、学校側の判断で都城発の列車を1本遅らせた。
しかし、皮肉にも宮崎市内では雨が降っていなかったため、試合は予定どおり正午にプレーボール。11時過ぎに球場入りした北別府は「調子は悪くなかった」にもかかわらず、試合前の投げ込み不足で調子がつかめないまま打ち込まれ、0対6でまさかの敗退。甲子園の夢を絶たれた。
75年ドラフト1位で広島入りした北別府は、82年と86年に最多勝に輝くなど、19年間で通算213勝を挙げ、プロでの実績で江川(通算135勝)を上回ったのは、ご存じのとおりだ。