ソフトバンク・和田毅

 ソフトバンク西武からフリーエージェント(FA)となっていた山川穂高を獲得し、その人的補償として、ベテラン左腕の和田毅が“プロテクト漏れ”していたのではないかと大きな話題となっている。

【写真】「人的補償」でブレイクした選手といえばやはりこの人

 一度は西武が人的補償として和田を指名したと報道されたものの、結果的に2018年のドラフト1位右腕・甲斐野央が移籍することとなった。だが、その過程で和田が「引退」をほのめかして人的補償を免れたという憶測も流れ、制度そのものの在り方にも様々な意見が飛び交っている。

 和田は来月に43歳を迎える大ベテラン。メジャーでプレーした時期もあったが、2003年にソフトバンク(ドラフト時は前身のダイエー)入団以来、NPBでは16年間一筋でプレーしており、キャリアを同チームでまっとうしたいと思うのは自然なことではある。

 今回、和田は移籍することなく当然引退ともならなかったが、かつてメジャーリーグではトレードなど納得のいかない通告をされ、キャリアを棒に振ったり、実際に引退したプレイヤーも存在している。

 このテーマで避けられないプレイヤーがカート・フラッドだ。1956年にシンシナティ・レッドレッグス(現シンシナティ・レッズ)でデビューしたフラッドは、1958年からはトレード先のカージナルスでレギュラーを掴み、ゴールドグラブ賞7度、オールスターに3度選出されるなどスター選手となった。

 しかし、153試合に出場して打率.285(606打数173安打)、4本塁打、57打点、9盗塁をマークし、7度目のゴールドグラブ賞に選出された1969年のオフにフィラデルフィア・フィリーズへのトレードが決定した。だが、フラッドは移籍先のフィリーズが弱かったこと、黒人選手だった彼が“差別主義者”とみなしていたファンがいること、そして自身を“商品”として扱っているということを理由にトレードを受け入れなかった。

 納得のいかないフラッドはそのまま「引退」することも考えたというが、選手の意思による移籍やトレードを拒否する権利を認めない「保留条項」は独占禁止法違反だとし、MLB機構を訴えたのだ。その後、フラッドは裁判に専念するために1970年シーズンはプレーせず。同年オフには再びトレードでワシントン・セネターズへ移籍となったが、翌シーズンはわずか13試合の出場にとどまり、選手としてのキャリアはそこで終了となってしまった。

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自分の意思を突き通すために引退した一塁手