「お前、なんで同じ教科書を2冊持っているんだ? となってしまったんです」
もっともな疑問だと思うが、そもそも自宅で教科書が見つかったからといってなぜ同じ教科書を2冊学校に持っていく気になったのか、理解できない。持っていけば盗みがバレるに決まっている。
「たまたま2冊持っていってしまっただけで……」
いずれにせよ、この事件によってYはクラスメイトから白い目で見られるようになってしまった。汚名返上のために人のやりたがらない掃除などを志願してやるように心がけたが、中学時代にほとんど友人はできず、成績も低迷した。
そうこうするうちに、父親と母親は離婚することになった。「Yだけ家を出ていってほしい」という父親の提案は、
「この子ひとりでは生活できないから、私がこの子と一緒に家を出る」
と母親が断った。
妹の親権は父親が取り、Yの親権は母親が取った。Yが中学を転校したくないと頑なに主張したため、母親は同じ横須賀市内の、消防士の家から離れたところにあるアパートを借りることにした。Yはそこからバスで中学校に通うことになった。
消防士の家を出る前、Yは実の父親の手がかりが欲しいと思って、母親の部屋を「捜索」したことがあったという。すると、クロゼットの中から意外なものを発見することになった。
「何かを保存しているらしい箱があったので開けてみたら、母の水着姿のブロマイド写真がたくさん出てきたんです。どうやら芸能人みたいなことをやっていたらしいんです。母親はとても綺麗な人で、家事も得意だし料理もうまいし、芯が強くて行動力もある。非の打ちどころのない人間なんです。男性にモテるのも理解できます」
Yは、自分のことを「完璧な母親の影のような存在」だと言う。いつか母親を越えたいと思っているが、どうしても越えられない。母親は高い壁なのだという。
「母親に憧れる気持ちもありますが、母親と一緒にいると自分の存在が霞んでしまう。やっぱり自分は金魚の糞なんです」
そんな「完璧な母親」は、Yが定時制高校に進学すると、再びアパートに男を連れ込むようになった。連れ込むという表現が悪ければ、新しい男と恋に落ちたといえばいいだろうか。
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