経営難に陥っていた都内の二つの信用組合の破綻に備え、預金や健全な融資を移す受け皿銀行をつくるため、全銀協会長銀行として金融界の出資を取りまとめる役だ。出資は、監督官庁の大蔵省銀行局(現・金融庁)から要請された。資本金は400億円で、日銀が半分、残りの半分を民間金融機関が出す。満40歳。平穏だった日々が、金融危機回避へと、劇的に変わる。
ウォートン校の授業で学んだことは、ここでは役立たない。『源流Again』でキャンパスを巡り、大学の創設者の1人だったベンジャミン・フランクリンの座像がある木立を歩いたが、当時はこんな役が回ってくるとは夢にも思わない。
金融機関を回り、事態を説明し、出資の意義を訴える。もちろん、極秘のやりとりだ。何に走り回っているのか、知らない部下もいた。渋る相手もある。だが、正攻法で説く。『源流』からの流れが、背中を押した。翌95年1月に新銀行が設立され、152の金融機関が出資に応じ、使命は果たす。
将来の伴侶がいた公務員住宅で1階下母同士が再会させる
1954年3月、母の実家の和歌山市で生まれ、1人っ子。父がいた広島へいき、父の転勤で宮城県塩釜市へいって小学校に入り、東京都の杉並区と東久留米市、岡山県玉野市に東京都世田谷区と、五つの小学校へ通う。中学校も世田谷区では1年だけで、埼玉県川口市へ転居し、市立上青木中学校へ入った。この5回の転校で、「何があっても平気」「必ず何とかなる」という気構えができた。
川口市で住んだ公務員住宅と通った中学校も、『源流Again』で訪ねた。公務員住宅は以前と同じふうだったが、老朽化で使用をやめていた。同行してくれた妻の千代美さんは、父が別の役所の勤務で、同じ住宅の1階下にいた。國部さんに「あなたがいたのは、あの2階の端よ」と言って指さすと、夫が頷く。千代美さんは3学年下。中学校時代は小学生だから、あまり交流はない。本を貸してあげたことを話題にして「返してもらったかな」と言うと、妻が「返しましたよ」と笑った。
互いに社会人になった後、交流が続いていた母同士が2人とも独身と分かり、再会させた。そこから、結婚へと進む。そんな話を、2人とも隠さない。フィラデルフィアで湧き出した國部さんの『源流』の地下水が溜まっていた川口市。千代美さんにとっても『源流』の水源だったのだろう。(ジャーナリスト・街風隆雄)
※AERA 2024年1月15日号