留学時代、よくニューヨークへ電車でいき、ミュージカルを観た。帰りに駅へ着くと、「さあ、勉強するぞ」と引き締めた。その「30丁目駅」も、とても懐かしかった(撮影/狩野喜彦)

 留学中、授業が終わると、学生寮や図書館へ向かった。図書館では午前零時の閉館まで、与えられる課題に取り組む。たまに早く終わると、留学生仲間と学生寮の地下にあった「カーニー」というバーで飲んだ。再訪でのぞいてみたかったが、工事中で立ち入り禁止。すごく損をした気になった。

 2年目は寮を出て、キャンパスの西にある3階建てのアパートに部屋を借りる。『源流Again』で、そのアパートがあったあたりにもいった。みつからないと思っていたが、それらしきアパートがある。レンガ造りで、雰囲気が残っている。記念に写真を撮った。

 76年に入行し、東京・大手町の東京営業部で、資金の帳尻を最終的に合わせる主計係と、外国通貨とやり取りをする外為係を計3年やった。その後1年、日本や世界の経済動向などマクロ経済を調査・分析する調査第一部にいて、米国へ出た。

 留学から帰るとき、英語に慣れたからといって、国際畑は目指さない。産業や企業の実情や先行きをみるミクロ経済を分析する調査第二部を、希望した。これでマクロとミクロの経済の見方を身につけて「さあ、次は銀行員らしく、企業に融資やアドバイスをする企業金融の仕事かな」と期待していたら、別の道が待っていた。銀行自身の経営戦略や金融界全体の課題解決に取り組む企画部への異動だ。

内示先は「奥の院」突然、出た指示は金融界の危機回避役

 内示を受けて、驚いた。大学で企業金融のゼミで学び、描いた銀行員の姿とは全く違う。でも、未知の世界へ進むことに、動じはしない。『源流』から流れている「度胸と自信」が、日本の金融界を動揺させかねない事態や、自らの銀行が国の支配下に置かれかねないときに、危機を回避する基盤となる。

 1994年12月6日、いまも日付を覚えている。企画部に設けた全国銀行協会(全銀協)の別室チームで次長を務め、「無事に正月が迎えられるかな」と思いながら書類の整理を始めていた。突然、企画部担当の専務に呼ばれる。そういえば、部屋にある首脳陣の在・不在を示すランプで、頭取と専務のところがだいぶ前から消えていた。「どこへいっていたのか?」と思いながらいくと、予想もしない指示が出る。

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