中臣(藤原)鎌足らによる大化の改新以降、日本の歴史にその名を刻んできた藤原氏。その中から、菅原道真を大宰府に追いやった藤原時平と大ムカデ退治伝説で知られる藤原秀郷をピックアップ。どのような人物だったのか。『藤原氏の1300年 超名門一族で読み解く日本史』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集して解説する。
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藤原時平 菅原道真の怨霊を恐れぬ剛毅な貴公子
関白藤原基経の嫡男時平は剛毅な人であったらしい。『大鏡』によると、大宰府で無念の死をとげた菅原道真の怨霊が雷神となって内裏清涼殿に落ちようとした。この時、時平は刀を抜いて「生存中のあなたは私の次の位にいた。雷神になったとしても、この世では遠慮してもらいたい」といって怨霊を鎮めた。また、朝廷の政治においても、時に道理にかなわぬ決定をすることがあったという。父基経ゆずりの強引な性格だったのだろう。
基経の死から六年後の寛平九年(八九七)、宇多天皇が醍醐天皇に譲位した。醍醐は在位中に摂関をおかず、後世「延喜の治」と呼ばれる親政を行った。その治世の前半、天皇の両腕として政務を主導したのが藤原時平と菅原道真である。
父の死去時、二十一歳の青年公卿であった時平は、その後も順調に出世を重ね、二十九歳の若さで左大臣に上った。『大鏡』は「大和魂のいみじくおはしたる人」とも評し、政治的な手腕や処世術に優れていたと記している。昌泰四年(九〇一)には、妹穏子を醍醐に入内させた。後年、朱雀・村上両天皇の母となり、北家に栄華をもたらす女性である。