同年、右大臣菅原道真が謀反の罪をきせられて大宰府に左遷された。罪状は醍醐を退けて、娘婿である斉世親王(宇多と橘広相の娘の子)を即位させようとしたというものである。昌泰の変と呼ばれるこの政変は、時平による他氏排斥事件の一つといわれるが、学者でありながら大臣になった道真の異例の出世が、周囲の反発を生んでいたのも事実であった。道真は帰京の願いもかなわず二年後、大宰府で五十九年の生涯を閉じる。

 時平は引き続き朝政をリードしたが、道真逝去の六年後、三十九歳の若さで亡くなる。

 人々は道真の怨霊の仕業であると噂した。平安末期成立の史書『扶桑略記』は、道真の霊が青龍となって時平の体内に入り、耳から姿を現したと記している。さらに、穏子を母とする皇太子保明親王が二十一歳で亡くなると、醍醐も怨霊におびえるようになり、道真の官位の復帰や左遷の取り消しなど怨霊慰撫の方策を行った。延長八年(九三〇)、内裏が落雷を受けたことで醍醐の恐怖は頂点に達し、その三か月後に四十六歳で崩御する。

 時平の死後、北家嫡流の地位は弟忠平に移る。時平の長男保忠は父の死去時、まだ二十歳と若く、父の権力を継ぐことはできなかった。次男顕忠が六十八歳の長命を保ち右大臣に上ったのは、謙虚なふるまいと、毎夜庭で天神を拝んだからであったと伝えられている。

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