天慶二年(九三九)、常陸(茨城県)の豪族と国守の対立の調停を引き受けたところ、予想外の戦闘が発生し、常陸国府を占領してしまう。勢いを得た将門は、国府を次々と攻略して関東を制圧。自ら新皇と称し、中央からの独立を宣言したのである。
国家存亡の危機に朝廷は震撼し、式家の藤原忠文を征東大将軍として追討に向かわせた。その一方、関東の在地豪族にも将門の討伐を命じ、五位以上の位階を与えるという破格の恩賞を約束した。貴族になるチャンスを逃す手はない。秀郷は将門と敵対していた平貞盛(将門の従兄弟)と手を結び、農民兵が帰村する農繁期をねらって将門の拠点を焼き討ちした。
天慶三年(九四〇)二月、激しい季節風が吹き荒れる中、秀郷・貞盛と将門は最後の決戦に臨んだ。当初、風上の将門軍が秀郷らを圧倒したが、風向きが変わると秀郷は三百余の精兵で敵本陣に突入。貞盛が射た矢で将門が落馬したところ、秀郷が馬で寄せて首をあげたという。乱後、秀郷は六位から一気に従四位下下野守に、貞盛は従五位上に叙され、子孫はどちらも武士の家として繁栄した。秀郷の子千晴は源高明に仕え、安和の変で没落したが、その弟千常の系統から佐藤・小山・結城氏などが輩出。子孫に伝えられた武芸は、後世、秀郷流故実として尊重され、秀郷は武芸の祖として伝説化された。