藤原秀郷 平将門の追討で貴族となった伝説の武人

 平安遷都から数十年がすぎると、朝廷では官人の増加により中央での出世をあきらめ地方に拠点を移す人が増えていく。藤原秀郷もそうした地方下りの官人の末裔だった。

 先祖は左大臣魚名とされる。その子藤成下野(栃木県)の大介職をえて赴任し、在地豪族の鳥取業俊の娘との間に豊沢をもうけた。藤成は西国に栄転し、豊沢は下野の在庁官人となって広大な土地を支配し実力を蓄えたと考えられている。豊沢の孫が秀郷である。

 秀郷の前半生は謎に包まれている。瀬田の唐橋に現れる大ムカデを退治した話は伝説にすぎないが、勇猛な人物であったのだろう。十世紀初頭、在地武士を引きつれて下野国府に敵対し配流に処せられたことがわかっている。当時、関東では群盗が横行し、秀郷の家はその鎮圧も任務としたが、時には群盗と一体化し、国府に敵対することもあったらしい。

 一つ間違えば、秀郷も平将門と同様、謀反人として追討される可能性もあったのである。

 将門は九世紀末、平姓を賜り関東に下った高望王(桓武天皇の曽孫)の孫にあたる。摂関家の藤原忠平と主従関係を結び、その権勢をバックに一族間で所領争いを繰り返した。

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武芸の祖として伝説化