ただ、大名の区分は、これ以外にも位階の上下や石高の大小、江戸城における控えの間(部屋)の違いなどがあり、幕府はそれらをうまく統制に利用した。

 反乱を起こす可能性の高い外様については、家康は関ヶ原合戦後、主に西国の遠地に移封し、江戸城のある関東平野は譜代で固め、京都や大坂、交通の要地なども親藩や譜代を配置した。姫路城や福山城などは西国における幕府の抑えの城であった。

 大坂の役が終結すると、家康は一国一城令を発し、原則、大名の城は居城一つに限り、他はすべて破壊させた。これ以前、大名は領内各地にいくつも城や砦をつくっていたので、一国一城令により大名の防衛力は一気に弱まった。また、有力な大名家臣も領内に城を持ち、広大な土地を与えられて直接支配をおこなっていたので、この法令は、各大名の有力家臣から城を奪うことになり、彼らの弱体化にも成功した。

 さらに同一六一五年、将軍秀忠の名をもって、武家諸法度を出した。これは大名を統制するための基本法であり、家康のブレーン・金地院崇伝によって起草された。

 その主な内容は、以下のようなもの。

「文武弓馬(学問や武術)の道に専念しなさい。法令に背いた者を領国に隠し置いてはならない。居城は修理するといっても、必ず幕府に届け出ること。ましてや新しい城を造ることはかたく禁止する。隣国で新しいことを企てたり、徒党を組む者がいたら、すぐに幕府に報告しなさい。幕府の許可無く、勝手に結婚してはならない」

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