関ヶ原合戦後、大坂城の豊臣秀頼は六十万石程度(摂津・河内・和泉)の一大名になったが、幕府が成立した後も秀吉以来の地位を保っており、豊臣家に心を寄せる大名も少なくなかった。
そこで家康は、豊臣家を強引に滅ぼす決意をする。豊臣家が再建した方広寺の梵鐘に「国家安康、君臣豊楽」の銘があったが、家康は「この文言は家康の名を二つに引き裂き、豊臣家の繁栄を願うものだ」と非難、これを口実に一六一四年に大坂城を大軍で包囲して攻め(大坂冬の陣)、いったん講和して城の堀を埋めさせたが、翌年、再び攻撃(大坂夏の陣)して秀頼を自害させ、豊臣家を滅ぼした。
この二度の戦いを大坂の役と呼び、これで戦国の世が終わったので元和偃武ともいう。偃武とは、武器を伏せ武器庫にしまうという意味だ。
江戸幕府の大名統制
徳川政権を存続させるために、江戸幕府は脅威になる勢力を徹底的に抑え込んだ。なかでも最も危険なのは大名、とくに外様の存在であった。
大名とは、原則一万石以上の石高を有する武士のこと。江戸時代を通じておよそ二百四十~二百七十家ほどが存在したが、徳川将軍家との親疎により三グループに分けられた。徳川一族を親藩、歴代徳川家に仕えてきた家臣大名を譜代、そして、関ヶ原合戦後に臣従した大名が外様だ。