将軍秀忠や家光の時代には、この武家諸法度に反したとして多くの大名を処罰している。一六一九年には広島藩主の福島正則が、崩れた広島城の石垣を無断修築して改易(領地を取り上げ)されている。正則は関ヶ原合戦での功労者だったが、それでも容赦なかった。
家康が死んだ翌年(一六一七)、将軍秀忠は西国大名や公家、寺社に対して領知宛行状(朱印状。領土の所有権を確認・安堵する文書)を出している。将軍はすべての土地を自由にできる権限があることを明示したのだ。将軍家光も一六二三年に領知宛行状を出し、将軍と大名の主従関係を改めて確認しているが、四代将軍家綱のときの領知宛行状で書状の形式が定まった。
大名には、将軍から石高に応じて軍役が課された。豊臣政権の時代同様、大名は石高に応じて規定の兵馬を用意しておき、将軍の命令によって出陣する義務を課したのだ。ただ、戦争がなくなると、参勤交代が軍役に準ずるものとなったり、大名改易のさいに城を受け取りに行ったりすることや、手伝普請などが課されるようになった。手伝普請とは、先述のような将軍の城(江戸城や大坂城など)の普請、大規模な河川の工事などのことである。ちなみに将軍家光は、一六三四年に三十万近い軍勢を率いて上洛しているが、これも軍役の一環であった。
徳川御三家の成立
徳川家康は大大名になってからも親族に大禄を与えなかった。有力な一門衆をつくらなかったのは、一門の抗争を避けるためだったと思われる。しかし関ヶ原合戦後、徳川政権の成立が確実になると一転して息子たちを大大名にすえて一門衆の創設を急いだ。
次男の結城秀康には越前国福井六十七万石、四男忠吉には尾張国清洲六十二万石、五男信吉には常陸国水戸十五万石、六男忠輝には下総国佐倉四万石、九男義直には甲斐国二十五万石にといった具合にである。
なお、徳川一門のその後だが、次男の秀康の家系は幕末まで残ったが、将軍秀忠は秀康の跡継ぎ忠直から不行跡のかどで領地を奪い、その弟に家を継がせて家格を落としている。また忠輝は佐倉から越後国高田六十万石(石高は諸説あり)へ加増したものの、後に領地を没収し配流している。
廃絶した家もある。四男忠吉と五男信吉は嗣子なくして二十代で没し、家系は絶えた。
次に、御三家の成立について解説しよう。家康は忠吉の死後、九男義直を甲斐から尾張へ移し、尾張藩を成立させた。さらに信吉亡き後の水戸には、十一男頼房が入封した。このように御三家のうち二藩は家康の生前に成立したが、紀伊藩祖の十男頼宣は、家康の存命中は駿河・遠江国五十万石の大名であり、彼が紀伊国和歌山五十五万石へ移封されるのは、家康が死んで将軍秀忠の治世になってからのことだった。
御三家は一般的には将軍宗家の血統が絶えたとき、代わって将軍を出す家格だと認識されている。ただ、家康がそう意図したわけではなく、たまたま生き残って、あるいは処罰されずに子孫へ家名を伝えることができた徳川一門が、のちに御三家と呼ばれるようになったと考えたほうがよい。
御三家という概念が成立したのは、五代将軍綱吉以降と考えられている。