AERAの将棋連載「棋承転結」では、当代を代表する人気棋士らが月替わりで登場します。毎回一つのテーマについて語ってもらい、棋士たちの発想の秘密や思考法のヒントを探ります。31人目は、宮田利男八段です。AERA 2023年10月23日号に掲載したインタビューのテーマは「将棋以外の楽しみ」
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1948年、渋谷で開業した「高柳将棋道場」は、都内でも屈指のにぎわいを見せた将棋道場(クラブ)だった。
「名伯楽といわれる高柳敏夫名誉九段の弟子の多くが、この道場でアマチュア強豪にもまれ、プロになっていった」(「朝日新聞」98年6月12日)
修業時代の宮田も、そこで夢中になって将棋を指した。
「親戚の女の子が『なんでそんなに夢中になれるの?』ってぐらいバレエに夢中になってね。でもよく考えたら、自分も10代の頃は将棋ばっかりやってた。だからその女の子を応援してるんです。彼女はバレエの本場、ドイツの大学に行きました」
宮田が高柳道場の師範代を務めていた頃、人気俳優の石立鉄男が遊びに来た。
「石立さんは『酒ばっかり飲んでちゃいけないから、碁でも習いに行こうかな』と思ったらしいんですよ。で、道場の中に入ってみたら『あれ、将棋じゃないか。でもまあいいや』って(笑)」
宮田と石立はプライベートでも親しくなる。宮田より10歳年長の石立は、よき兄貴分だった。
「将棋指しが将棋指しとだけ付き合うのはおかしい。それよりはいろんな世界の人と付き合った方がいいんじゃないかと思ったんだ」
96年。羽生善治の七冠制覇で将棋界はかつてないほど注目を浴びた。一方、将棋を指す人口は少しずつ減り、将棋クラブも減りつつあった。
98年6月。高柳道場は半世紀にも及ぶ歴史に幕を閉じた。同年11月。宮田は高柳の衣鉢を継ぎ、渋谷から少し離れたところで「三軒茶屋将棋倶楽部」を始めた。
「お客さんもまだいたし、将棋が指せる場所が全くなくなるのも寂しいからね。渋谷で借りるのは高くて不可能でも、ここ(三軒茶屋)だったらかなり安いんだよ。オープンしてから1年ぐらい、石立さんは毎日通ってきてくれた。他のお客さんに『またおいでよ』って言ってくれてね」
クラブでは本田奎現六段、斎藤明日斗現五段、伊藤匠現七段と、のちに棋士になる少年たちも育っていった。