結局、尊氏は政権を京都におくことに決めた。それから二年後、尊氏は朝廷から征夷大将軍に任じられ、正式に京都に幕府を開いた。これが後の室町幕府である。
ただ一方で、後醍醐天皇が立ち上げた吉野の朝廷(南朝)も健在だった。それどころか、多くの武士が吉野に集い大勢力となり、室町幕府を悩ますようになった。
この南朝と幕府(京都の北朝)は、以後、六十年ちかくにわたって抗争を続けることになった。これを南北朝の動乱(内乱)と呼ぶ。
南朝も巻き込んだ幕府の内紛──観応の擾乱
初期の幕府では、尊氏が実権のすべてを掌握していたわけではない。弟の直義と権力を分担する二頭政治が展開されていた。尊氏が軍事指揮権をにぎり、直義が裁判権や行政権を握って一般政務を取りしきったのである。しかしやがて、急進的な尊氏の執事・高師直と保守的な直義が対立するようになる。その背景には、師直を支持して所領を拡大していこうとする新興の中小武士団と、直義のもとで鎌倉幕府以来の制度を維持しようとする有力御家人層の対立があったといわれている。しかもこの両者の対立から武力衝突が起こり、とうとう内乱に発展してしまう。世にいう観応の擾乱(一三四九~五二年)である。