尊氏はその後戦いを有利に進め、ついに鎌倉で直義を捕縛した。直義は寺院に幽閉されたが、まもなく死去した。弟を生かしておけば抗争は絶えることがないと判断し、直義を毒殺したと『太平記』には載るが、自然死だとする学者もおり、その死の真相はよくわからない。ただ、これで政権が安定したわけではなかった。その後も十年あまり、尊氏派と直義派、そして南朝の三勢力が、三つ巴の抗争や同盟を繰り返すことになった。

 以上みてきたように、尊氏が政権を握って、すぐに幕府の政治体制が安定したわけではないのだ。

 南北朝の戦いが長引いた理由として、観応の擾乱にくわえて相続制度の変化が関係しているといわれる。

 武士の分割相続は維持できなくなり、鎌倉後期になると惣領制は解体し、一人の息子(嫡子)がすべての財産を相続する(単独相続)ようになった。これにより庶子は、嫡子に従属を強いられた。このため惣領(本家の当主)の地位をめぐって一族兄弟で争うようになったのである。そうしたなか朝廷が二つに割れていることは、都合がよかったのだ。

 たとえば長男が北朝(幕府)方につけば、次男は南朝に味方するというように、それぞれの正当性を主張できたからだ。なお、南北朝の動乱のなかで、分家の当主も本家から独立していき、それまでの血縁的な一族の結束は薄まり、むしろ武士は地縁的な結合を強めていくようになった。
 

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