一三三六年、建武政府を崩壊させ、一三三八年に室町幕府を発足させた足利尊氏。京都から脱出した後醍醐天皇は、大和の吉野で政治を再開し南朝を開いたため、その後も争いは終わらなかった。しかし、その南北朝の動乱が長引いた理由には、相続制度も関係しているという。歴史作家である河合敦の著書『日本三大幕府を解剖する 鎌倉・室町・江戸幕府の特色と内幕』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集して解説する。
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室町幕府の成立と南北朝の動乱
光明天皇(北朝)を擁立した足利尊氏は、その権威を背景に己の政権の正当性を獲得、一三三六年には建武式目を制定した。式目というが、これは鎌倉幕府の御成敗式目(貞永式目)と異なり、尊氏のかかげた政治の基本方針を示したもの。尊氏が明法家(法律家)の中原道昭(是円)・真恵兄弟に諮問し、彼らがそれに答える形式をとっている。
建武式目の内容だが、「鎌倉幕府は鎌倉に政権を置きましたが、大切なのは為政者のあり方です。人びとが拠点の移動を希望するなら、それに従ってもよいと思います。政治は、鎌倉幕府の手法を踏襲するのがよいでしょう。倹約、多数での酒宴などを禁じ、守護などの役人は能力に長けた武士を選ぶべきです」といった十七カ条の基本政策が提言されている。