明さんが記者たちに不安を訴えている場面がテレビのニュースで放映された。ネット上に「不安だと言いながら化粧している」と書き込みがあった。さらに「自作自演」「そもそも基地の近くに住む者が悪い」といった誹謗中傷。
「もちろん励ましの声もありましたが、少なくともネット上では、被害者であるはずの保育園を攻撃する声ばかりが目立ちました。完全な“敵意”だと感じました」
被害者が被害を強く訴えると叩かれる。そうしたネット言論の渦に明さんも巻き込まれたのだ。悔しくて、怖くて、苦しくて、そして不安で、眠ることのできない日が続いた。食欲も落ちた。事件後1カ月で体重は5キロも落ちたという。
東京に来てから、そのときの経験を話している。多くの人に沖縄の現実を伝えたいと思っている。だからときおり口調も強くなる。基地問題とは、命に関わる問題だと知ってほしいからだ。
なのに――思ったように伝わらない。微妙な「すれ違い」が苦しい。
「一種のトーンポリシング(話し方の取り締まり)なのかな、とも思います。沖縄は弱い存在であり、本土に従属する立場にあるからこそ、みんな安心できるのかなあとも感じてしまうんです」
東京の空に戦闘機の影を見ることはない。その点は安心できる。娘は機影のない空を見上げて「いんちきの空だね」と言った。騒音もなければ、戦闘機が落ちてくる心配もほとんどない。
だが、もしかしたら「いんちき」なのはその通りなのかもしれないとも感じた。東京の空で爆音が響かないのは、沖縄にそれを押し付けているからではないのか。
見せかけの平和は、沖縄を犠牲にすることで成り立っている。
明さんの話を聞きながら、ふと思い出したことがある。
「土人発言」事件の直後のことだ。
事件当日、私は沖縄にいた。
あるテレビ局から生中継で私のコメントを取りたいと連絡があったので、それを快諾した。
夜、私はホテルの部屋で電話取材に応じた。構造的差別に言及し、琉球処分や人類館事件についても触れた。
すると、東京のスタジオから意外な言葉が返ってきた。
「ちょっと違うような気もするんですよね」
番組を仕切るキャスターは続けてこう言った。
「いま、沖縄に対する差別ってありますかねえ。みんな沖縄の海が大好きだし、音楽や食事も好きじゃないですか」
唖然として私はなかなか言葉をつなぐことができなかった。
海や音楽が好きであることは、差別がないことを担保するものではない。むしろ、表層的な沖縄しか知らないのではないか。
差別がないと言い切るのであれば、たとえば、なぜに米軍専用施設の7割が、国土の0.6%しかない沖縄に集中していることに無関心であるのか。沖縄であれば、基地を置いてもよいのか。沖縄だから許されるのか。
沖縄の民意が発しているのは、常にシンプルな問いかけだ。