「沖縄に基地は多すぎませんか?」
何十年間も、この問いかけを投げては無視されてきた。いや、それどころか「本土」は自らが抱えた米軍基地を沖縄に追いやってきたのではなかったか。
富士や岐阜にあった米軍の海兵隊基地は住民の反対運動によって撤去された。しかし、日本から消え去ったわけではない。これらはすべて沖縄に移されただけなのである。そして、沖縄ではどれだけ基地反対運動を続けても、基地が動くことはない。
これが差別といわずに何だというのか。
第2次大戦で沖縄が戦場となったとき。日本軍が沖縄住民をスパイ視して虐殺した事例は、「本土」の人間は忘れても、沖縄ではいまでも語り継がれている。
「沖縄を下位に置くことで、本土の優越意識が保たれているんじゃないですか」
私が取材した関西沖縄文庫(大阪市)の金城馨氏(沖縄県出身)は、突き放すように言った。
「土人発言も、日本人の意識の問題ですよ。日本人がずっと持ってきた、沖縄へのまなざしが具体化されただけ」
そのうえで、こう続けるのである。
「人類館はまだ終わっていないと思いますよ。一部では盛大に“開催中”なんじゃないですか」
事件が起きた1903年は、日清戦争から8年、日露戦争開戦の前年という時期である。軍事的な膨張主義が日本に蔓延していた。博覧会も国力誇示を目的とした政府の威信をかけた事業だった。
当時と今日の空気感が二重写しに見えないだろうか。
2015年にスイス・ジュネーブで国連欧州本部の人権理事会を取材した際、同地で会った琉球新報の潮平芳和編集局長(当時)は、次のように私に向けて話している。
「排外主義は軍事的膨張とリンクする。人間の営みを無視した差別や優越意識が、戦争への扉を開くような気がする」
実際、沖縄差別は各所であふれているではないか。
「沖縄差別などない」と言い張る者は、では、2010年にケビン・メア米国務省日本部長(当時)が「沖縄はごまかし、ゆすりの名人」と発言した際、本気で怒っただろうか。
週刊誌が「沖縄は“捨て石にされた”と恨み言をいう。被害者意識は朝鮮よりひどい」と記事に書いたとき、憤りを感じたであろうか。
「他人事」という明さんの言葉は、「本土」で安穏と暮らす私にも突き刺さる。
一方、自称「愛国者」たちは沖縄の危機を訴える。外国勢力に乗っ取られると警鐘を鳴らす。侵略に備えて軍備を増強しろと叫ぶ。
本当にそうなのか。危機にあるのは安全保障ではなく、沖縄の主権と人権ではないのか。