2016年沖縄・高江の米軍ヘリパッド建設工事に反対する市民に向けられた、大阪府警警察官による「土人発言」。あのとき、大阪府・松井一郎知事(当時)は、機動隊を擁護し、差別的な暴言を容認するかのような姿勢を示した。さらに、古くは明治時代、第5回内国勧業博覧会で生身の人間を見世物として展示した「人類館事件」。ジャーナリストの安田浩一氏は、日本社会では連綿と沖縄への差別と蔑視が続いていると問題提起する。安田氏の新著『なぜ市民は"座り込む"のか――基地の島・沖縄の実像、戦争の記憶』(朝日新聞出版)から一部を抜粋、再編集し、紹介する。
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なんだろう、この違和感は。もやもやが消えない。何かが違う――。
夫の転勤で沖縄から東京に移り住んで2年あまり。明有希子さんの疑念はふくらむばかりだ。
関東各地でおこなわれる沖縄の基地問題をテーマとした講演会やシンポジウムに呼ばれる機会が増えた。
明さんは訴える。米軍基地に離着陸する軍用機の騒音、沖縄と「本土」の不均衡と不平等、沖縄に向けられた差別と偏見。自らの経験をもとに基地偏重の現実を理解してほしいとも呼びかける。
だが、予想もしていなかった反応に戸惑いを覚えることも少なくない。
「沖縄、大変ですね」
いや、大変さを訴えているんじゃないんだけど。喉元まで出かかった言葉をぐっと呑み込む。
「応援します」
嬉しいけれど、わたしひとりが頑張らなくてはいけないのか。
同情してくれる。みんな「寄り添いたい」と言ってくれる。沖縄を悪く言うわけでもない。きっと優しい人たちなんだろうなあと、できるだけ理解したいと思いながらも、やはり違和感は消えない。
ときにはこんな言葉も。
「そんなに卑屈にならないでください」
「もっとやわらかく伝えたほうが、みんな納得すると思いますよ」
えっ、基地被害を訴えることが「卑屈」になるのか。不条理を批判すると「納得」できなくなるのか。おそらく相手は貶めるためではなく、励ますための言葉だと思い込んでいるのだろう。その残酷さに無自覚なままに。