今春のWBCで“栗山ジャパン”が14年ぶりの世界一を実現。一昨年の東京五輪でも“稲葉ジャパン”が金メダルを獲得しているが、かつての日本代表チームは、プロの選手に参加資格がなかったため、オールアマチュアで構成されていた。アトランタ五輪日本代表の4番・松中信彦のように、プロ入り後も第1回WBCで日本代表の4番を打ち、初優勝に貢献した者もいる一方で、プロでは大成できずに終わった全日本の4番も少なくない。
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アマ時代は1歳年長の落合博満(東芝府中)以上に評価されていたのが、東芝時代の菊地恭一だ。
1978年夏の都市対抗では、1試合2発を含む3本塁打を記録し、チームの優勝に貢献。直後、イタリアで行われた世界選手権にも落合とともに全日本メンバーに選ばれ、前哨戦のハーレム国際大会、オーストラリア戦で3ランを放つなど、持ち前のパワーをアピールした。
そして、同年のドラフトでは、ロッテから3位・落合より上位の2位で指名された。
だが、ドラフト前に「今年は(プロに)行かないから、来年よろしく」と残留を表明していたのに、強行指名されたことに会社側が態度を硬化。最終的にプロ入りを見送った。
菊地は翌79年もインターコンチネンタル杯の全日本代表に選ばれたが、ドラフトではまさかの指名なしに終わる。
そんなボタンの掛け違いを経て、81年にもインターコンチネンタル杯に出場。全日本の4番として長打力に磨きをかけた27歳の菊地は、ドラフト直前の日本選手権でも11打数7安打4打点1本塁打で首位打者に輝き、大洋の2位指名を受ける。当時大洋監督就任が噂されていた長嶋茂雄氏が菊地を高く評価していたことから、指名されたともいわれる。
また、左打者が多いチームにあって、右打者の菊地は「開幕から1軍のベンチに座ってもらおうと思って指名した。もちろん、右の代打(の切り札)より外野の一角を狙う気持ちで頑張ってほしい」(湊谷武雄スカウト部長)と即戦力の期待がかけられた。