しかし、プロ入り後は木製バットや変化球への対応に苦しみ、実働3年で通算45打数7安打の打率.156、本塁打、打点ともにゼロと、結果を出せずに終わっている。

 90年のアマチュア野球世界選手権で全日本の4番を打ち、ドラフト1位で日本ハムに入団したのが、183センチ、85キロの長距離砲・住吉義則だ。

 祖父の親戚が第41代横綱・千代の山。その縁から中学時代に相撲部屋からスカウトされたが、「将来はプロ野球選手になる」夢を実現するため、断ったというエピソードも。箕島高時代の82年春、捕手として甲子園に出場後、竹早高定時制を経てプリンスホテルへ。

 当初はソウル五輪日本代表の4番・中島輝士(日本ハム‐近鉄)の陰に隠れていたが、6年目の89年にレギュラーの座を掴むと、持ち前の長打力を発揮し、都市対抗でチームの優勝に貢献した。

 翌90年も公式戦20試合で打率.407、12本塁打、38打点とチームの三冠王になり、全日本の4番に。同年のドラフトで打線強化を急務とする日本ハムに、古屋英夫の後釜の三塁手候補として1位指名された。

 入団後、近藤貞雄監督から新外国人のベイス、3年目の中島とともに打線のキーマンに挙げられた26歳のルーキーは、オープン戦でヤクルト・川崎憲次郎からプロ初アーチ。「開幕サード」をアピールしたところまでは順調だった。

 ところが、3月21日の巨人戦で原辰徳の平凡な三ゴロを一塁大悪投するなど、スローイングの欠点を露呈し、レギュラー獲りならず。期待された打撃も1年目は打率.175、0本塁打に終わり、2年目以降は出番に恵まれないまま、96年のロッテを最後に現役引退となった。

 91年のバルセロナ五輪予選で全日本の4番を打ち、翌年の五輪出場権獲得に貢献したのが、東芝・丹波健二だ。

 すでに26歳。五輪出場かプロか、究極の選択を前に、「子供のころからのプロという夢をはたせぬまま終わりたくない」とプロを選び、同年のドラフトでロッテに3位指名された。

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26歳でプロ入りした和製大砲“男のラストチャンス”