
広川さんは支援物資を配りながら三陸海岸沿いを岩手県・釜石まで北上した。
「電気は通じていないし、風呂も沸かせない。そういう場所で品物を配って歩いた。でも、みなさん『いや、いいですよ』とか言って、最初、遠慮するんです。でも、話をすると、遠慮するような状況じゃない。難しいですよ。恵んであげる、みたいな感じになって、相手のプライドを傷つけるようなことはしたくないですし」
被災地で撮ってほしい
一方、広川さんは被災地のがれきのなかで流出したアルバムや、水に浮く写真を目にした。
「自分の家があった場所に家族の痕跡を探しに戻ってきた人が写真を見つけるとすごく喜ぶんですよ」
ちょうどそのころ、泥まみれで見つかった写真を奇麗に洗浄して持ち主に戻す「被災写真洗浄活動」が各地で始まった。
東京に戻った広川さんは写真洗浄ボランティアとのつながりで知り合った気仙沼在住の人から「気仙沼で何か写真を撮ってもらえないか」と頼まれた。
相馬の避難所での撮影が思い浮かんだ広川さんは「津波で写真を失った人たちのために、家族の写真を撮影してプレゼントしたらどうですか」と提案。それがきっかけで「気仙沼ファミリーフォトプロジェクト」が始まった。
11年10月、広川さんは再び気仙沼を訪れ、地元新聞の告知を見て集まった人たちを市役所の会議室に設けたスタジオで撮影した。
一方、前回、支援物資を配って訪れた場所がどうなったのか気になった。
「4月に行った場所をまわったんです。それで、同じところを撮ってみようと思った。そこからですね、定点撮影が始まったのは」

誰かに話を聞いてほしい
実は、支援物資を配った際、広川さんは車の片隅にカメラを積んでいった。
「撮影のために行ったわけではありませんが、やっぱり撮影しちゃうんですよ。それは『写真家のサガ』といいますか。最初はもう驚きで、ああ、こうなっちゃったんだっていう場所を撮影した。それから毎年、家族を撮りつつ、同じ場所を撮るようになった」
その一つが全長約60メートルの大型漁船「第十八共徳丸」が打ち上げられた気仙沼の市街地だった。広川さんはこの船をJRの線路の上から撮影した(震災後、この区間は廃線)。
「線路脇には火災で焼け焦げて、さびた車とかが、ダーッと折り重なっていました。私が立っていると、地元の人がやってきて、当時のことを話すんです。車1台で4回爆発音がした、とか。なぜかというと、タイヤが爆発するからなんです。その音が一晩中すごかったと言う。誰かに話を聞いてほしいんだな、と思いました」