気仙沼で。2011年10月。撮影:広川泰士
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広川泰士さんは東日本大震災直後から被災地を訪れ、家族の写真を撮影し、プレゼントする活動を続けてきた。

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福島県相馬市の避難所に設けたスタジオで撮影した写真を見せてもらうと、衝撃を受けた。そこに写っていたのは家族のとびきり明るい笑顔だった。

撮影したのは震災発生から3カ月後の2011年6月。避難所の外には津波で粉々になった家々や打ち上げられた船がほとんど手つかずのまま残されていた。それをみじんも感じさせないにこやかな表情。あまりにも大きな落差に戸惑った。

「いい顔して笑っているんですけどね。みんないろんな事情があって」と広川さんは話す。

「例えば、母親と小さな男の子を撮ったんだけど、お父さんとお兄さんは津波に流された。その直後だから母親も息子もやっぱり精神的に不安定ですよ。しかも体育館で雑多に寝泊まりしているからすごいストレスがある。ぼくは数時間いただけですけれど、疲れました」

仮設とはいえ、スタジオでの記念撮影といえば、ハレの日の行事である。それがなぜ進行中の震災の現場で行われたのか?

すると、「それは地元の人じゃないとわからないところがあるんですよ」と言う。

「避難所での撮影は相馬で絵画教室を開いている画家が話をつけてくれて、ここで撮影してほしい、ということだったんです。その人は直接、津波の被害はなかったんですが、そういう人でも知り合いが亡くなったりしている。生まれ故郷が無残に変わり果ててしまって、家族が全員生き残った人でも心が傷ついている。家族を失った人はもっとでしょう。撮影に行ったとき、地元の家に泊めてもらうと、宴会になって、いろいろ話すんですけれど、そういうことで精神的にちょっと落ち着く、という感じはしました」

気仙沼で。2011年4月。撮影:広川泰士

支援物資に「いや、いいですよ」

広川さんが初めて被災地を訪れたのは11年4月。思いつくかぎりの日用品をぎゅうぎゅう詰めにしたワンボックスカーをアシスタントと二人で走らせ、宮城県・気仙沼を目指した。津波で発生した大規模な火災によって気仙沼の街が何日も燃え続けたことが脳裏にあったという。

「必要なものが届かなくて困っている人の話をSNSなどで知ったんです。支援物資が行政のルートで行き渡っていないとか、入り組んだ海岸線と山に囲まれた集落が孤立状態になっているとか。車1台に積んでいける物資の量なんて、たかが知れているし、本当に微力なんですけれど、何かの役に立てればいいな、と思って行きました。ただ、それだけです」

実際、気仙沼市役所を訪ねると、人手不足で被災者に配れない支援物資が山のように積み上げられていた。

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被災地で撮ってほしい