この年、会社を始動させた廣瀬は、まずは「W杯2019」を日本でどう盛り上げていくかのPRに傾注しようとしていた。ついで、教育、食、スポーツを軸に事業展開していこうと漠然と考えていた。労苦はともなったものの、ドラマ出演は、これから事業を立ち上げて発信していこうというときに、大きなステップとなっていた。
体育教師の父、音楽教師の母の勧めで廣瀬がラグビーを始めたのは、5歳のときだった。
「無理やりラグビースクールに連れて行かれたんで、最初は全然好きじゃなかった。でもそこは、あまり勝ち負けにこだわるスクールではなくて、友だちもできてだんだん楽しくなっていった」
中学に上がると、ラグビー部に所属しつつ、休みの日にはスクールに通う日々が始まる。北野高校、慶応義塾大学理工学部機械工学科へと進んでからもラグビーを続けた。廣瀬は、そのいずれでも、周囲から推されてキャプテンを任されていた。
慶應義塾體育會蹴球部(たいいくかいしゅうきゅうぶ)(慶応義塾大学ラグビー部)で同期だった北村誠一郎は廣瀬のプレーをこう評する。
「高校代表で初めて会ったときから、プレー中の判断力は抜群でした。身体は大きくないのにコンタクトはものすごく強かった。周りの状況もよく見て冷静にプレーしていた。大学4年でキャプテンになってからも、誰かを強く鼓舞したり、声を荒らげたりするのは見たことがない。ただ、たとえば、ケガ人が出て誰を補填するかというときなどには、迷うことなく即決していた。判断が速く、たぶん、その理由も明快だったんだと思う」
廣瀬が中学時代から意識してきたのは、「文武両道」だ。勉強にもスポーツにも全力であたり、全うする。そのために、効率よく勉強時間を1日のうちにちりばめ、集中して打ち込んだ。北野高校から慶応に進むにあたっては、評定平均4.1以上が必要な指定校推薦枠を狙い、練習以外の時間はほぼ勉強時間に割いた。高校日本代表の合宿、海外遠征がある中でも、参考書は手放さなかった。
大学卒業後は、ラグビーをやめて大学院で振動工学の研究室に入るつもりだった。
「ただ、引退試合で当たった関東学院がすごく強くて、めっちゃいい雰囲気だった。それは自分の味わったことのない世界で、もっとラグビーを知りたい、やりたいってなってしまったんです」
廣瀬が選んだのは、東芝だった。