朝5時半か6時に起きて白湯を飲んだ後、7キロから10キロほどランニングするのが日課。「走りながら音楽を聞いたり、ニュースをインプットしたり、考え事をする貴重な時間」。近くの海岸にもよく出る(撮影/小山真司)

 結局、当該部員は退部し、叱責はあったものの廃部は避けられた。しかし、事件は続いた。

 マイクロソフトカップの決勝戦、対三洋電機ワイルドナイツ戦を数日後に控えた09年2月、今度は、ドーピング検査でひとりの選手から薬物の陽性反応が出たのだ。

「ついに部はこれでなくなるかもと覚悟しました。なんで、自分がキャプテンのときにこんなことが続けて起きなあかんねん、とネガティブになってました。ファンにも先輩にも申し訳なくて」

 監督、部長は謹慎、選手たちも3日間自宅待機の処分。世間からのバッシングもあったが、会社からはトップリーグ決勝戦への出場は認められた。廣瀬は、部員たちを前に、「すごい状況やけど、ラグビー部を守るためにも、あるいは一生懸命ラグビーをやってきたことをお客さんに見てもらう意味でも、チャンスやから、決勝戦で頑張ろう。勝って示そう」と涙ながらに訴えた。 

 それは、廣瀬のラグビー人生でも忘れられない一戦となった。

「チーム一丸となって、あんなに集中したことはないというぐらい集中できた。結果は17対6。自分のパフォーマンスも最高で、きれいにすいすいと走れる、いわゆるゾーンに入っている感じでした。試合後、両チームのファンからかけられた温かい言葉もとにかくありがたくて、ラグビーというスポーツがさらに好きになっていた」

怒りの声も上がる中で選手会を立ち上げる

 12年3月、サントリーの監督、エディー・ジョーンズから東京・分倍河原駅近くのタリーズに呼び出され、廣瀬はこう言われた。

「1年間、代表のキャプテンをやってほしい。日本のラグビーはもう二十何年も勝ってなくて、ボトムまできているから、あとは上がるだけだから。それを一緒につくっていこう」

 エディーは4月から日本代表監督に就任することになっていた。15年のW杯イングランド大会を念頭においてのことだった。

「エディーさんのラグビーは新鮮でした。トレーニングと食生活、睡眠を変えるだけでこんなにもパフォーマンスは上がるのかと思いました。体重も増えたし。ただ、練習は味わったことないぐらいきつかった。試合よりきつい状況をつくるというのがエディーさんのやり方でしたから」

 日本代表と東芝の先輩で、代表キャップ数98を誇る大野均(45)は、W杯直前に行われた代表合宿をこう振り返る。

「街から離れたホテルで息抜きもできず、梅雨時で太陽も出ず、みんな精神的にきつかった。そのときトシは、『きついけど、この合宿を乗り越えたら、人として徳を積める気がするんですよ。修業としてやっています』と言ったんです。ああ、そういう考え方もあるのか、俺もそれでやってみようと思いました。トシは常に自分をちょっと居心地の悪いところに意識的に置こうとする。それが成長するために必要だということをわかっている人間なんです」

(文中敬称略)(文・一志治夫)

※記事の続きはAERA 2023年9月18日号でご覧いただけます

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