当時の今川家は、駿河・遠江・三河三ヶ国を領国とした、海道筋随一の大規模戦国大名であった。しかも室町幕府を主宰する足利将軍家の御一家として、高い政治的地位とそれに相応する文化・教養をもとに、近隣の甲斐武田家・相模北条家よりも優越する地位にあった。周辺の戦国大名家をリードする、いわば戦国大名家のトップランナーともいうべき存在であった。家康はそのもとにあって、少年期から青年期を過ごしたのであり、今川家からうけた影響は、計り知れないものがあったことは間違いない。家康にとって、今川家こそが、戦国大名家としての手本に他ならなかったであろう。

 永禄三年(一五六〇)の尾張桶狭間合戦で、今川義元が戦死したことで、三河・尾張情勢は急変し、それに応じて家康は、尾張織田信長と同盟したうえで、今川家に敵対する。そこから家康は、足かけ九年におよんで氏真と軍事抗争を展開した。しかし家康が果たしえたのは三河一国の統一であり、遠江経略をすすめることはできなかった。同十一年に、氏真と武田信玄の関係悪化により、家康は織田信長を通じて信玄と同盟を結び、氏真に対して協同の軍事行動を展開し、遠江経略をすすめた。

 氏真は武田軍によって駿河から退去を余儀なくされ、遠江懸川城に籠城した。家康はそれを攻撃するが、すぐに氏真とそれを支援する北条氏政とのあいだで和睦を結び、その際に氏真・氏政と入魂にするという誓約まで結んだ。家康が懸川城の攻略に拘らなかったのは、氏真とのかつての交流から生まれた、気心のようなものがあったように思う。

 これにより家康は遠江一国の経略を遂げ、遠江・三河二ヶ国の戦国大名になった。家康の遠江・三河統治のあり方は、支城制の採用といい、在地支配の仕組みといい、今川家のそれを踏襲するものであった。家康にとって今川家は、やはり戦国大名としての手本であったといいうる。

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