巨人時代のアリアス(OP写真通信社)
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 日本で活躍した助っ人がその実績を買われ、他球団でもプレーする例は少なくない。1990年代のトーマス・オマリー(阪神-ヤクルト)のように移籍先でもチームに貢献した選手もいるが、その一方で、移籍後ほとんど活躍できず、ファンの記憶にほとんど残らないまま消えていった助っ人もいる。

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 中日時代に3年連続首位打者に輝いたアロンゾ・パウエルもその一人だ。

 92年に中日入りしたパウエルは、メジャーではこれといった実績がなかったものの、来日後は広角打法から安打製造機ぶりを発揮し、日本の野球に適応。落合博満が巨人FA移籍した94年からは4番を打ち、外国人では初の3年連続首位打者を獲得した。

 だが97年、本拠地が広いナゴヤドームに変わり、“恐竜打線”が通用しなくなると、星野仙一監督は守備力重視の野球に180度転換。この結果、左膝の古傷の影響で打撃成績を落とし、守備にも難のあるパウエルはシーズン後に戦力外通告を受けた。

 33歳と年齢的にまだやれるパウエルは日本でのプレーを望み、5年連続Bクラスからの脱出を目指す阪神が「中心選手に」と期待して獲得したが、この補強は大失敗に終わる。

 翌98年、開幕から4番を務めたパウエルは9試合で打率.115、2本塁打と振るわず、早くもベンチ要員に格下げ。その後、6月6日の横浜戦で本塁打を含む2安打3打点を記録したが、力の衰えは顕著で、7月後半から代打起用が続く。

 ついに最終テストを決断した吉田義男監督は、8月7日からのヤクルト3連戦でパウエルをスタメン起用したが、8打数無安打3三振1失策とさっぱり当たらず、打率も.255まで下降した。

「1打席1打席、打ってくれ打ってくれ!と願っていたんですが、淡白な印象が強かった」(吉田監督)。

 直後2軍落ちが決まると、本人から退団を申し入れる形で、そのまま帰国。3年連続首位打者からわずか2年後の寂しい幕切れだった。

 阪神時代の03年に38本塁打を放ち、18年ぶりのリーグVに貢献したのに、その後巨人でもプレーしていた事実を半ば忘れられているのが、ジョージ・アリアスだ。

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アリアスの巨人での成績は?