ツヴァイクが描くユダヤ人公証人の内面の心理は、実は作家という仕事そのものの内面を描いているかのようだ。特にフィクションの作家は、自分の頭の中で、白と黒のふたつの人格にわかれて、無限のゲームを戦っている。それをどんな抑圧下にも負けない精神の自由と表現することもできるだろう。が、ツヴァイクが、『チェス奇譚』の中で描くように、狂気と紙一重でもある。
ツヴァイクは、反ファシズムの運動には関わらなかった。というのは、ツヴァイクは、1920年代にソ連に招かれ旅行をしていたが、そのときの経験から、マルキシズムに対してもナチズムと似た冥(くら)さを感じていたからだ。ツヴァイクはイデオロギーから常に独立していようとしたが、それが文壇での孤立にもつながり、マルキシズム全盛の戦後には、作品が「通俗的」として遠ざけられる要因にもなった。
言葉も通じない異国での孤独のなかで、ドイツ軍の快進撃のみならず、日本の真珠湾攻撃や、シンガポール陥落のニュースを知る。世界は日独のものになるという暗い予感から1942年2月22日深夜、妻ロッテとともに死を選んだのである。
そのわずか4カ月後には、ミッドウェイ海戦で、日本が大敗し、翌年正月には、東部戦線でもドイツの後退が始まるとは、夢にも思わずに。
ところで映画と原作には当然のことながら違いがある。そのうちの大きなひとつは、世界チャンピオンとの船上での再戦の帰結だ。原作では、公証人は、世界チャンピオンに敗北をきっすることになる。ヒートした脳細胞は、いつしか、盤面の試合ではなく、過去の世界戦を公証人が戦っているという錯乱で終わっている。
映画は、これを見事に脚色し、この再戦と、秘密警察の最後の尋問を交互に描く。公証人はついに口をわり、秘密警察側は必死にそのメモをとるが、そのアルファベットと数字の羅列は口座番号でも暗号でもなく、チェスの棋譜だった。
映画では、チェスの再戦自体も勝利に終わっている。つまり、原作は、全体主義に対する敗北を描いているとも言えるし、映画は勝利を描いているとも言えるのだ。
下山進(しもやま・すすむ)/ノンフィクション作家・上智大学新聞学科非常勤講師。メディア業界の構造変化や興廃を、綿密な取材をもとに鮮やかに描き、メディアのあるべき姿について発信してきた。主な著書に『2050年のメディア』(文春文庫)など。
※AERA 2023年7月31日号