70代以上には有名な作家だったらしい。月刊『Hanada』編集長の花田紀凱は文春の若手編集者だったころ、故田中健五から「面白いから読んでみろ」と言われて、やみつきになり、全集をそろえたと言っていたし、故児玉清の愛した作家でもあった。
本来は伝記作家として有名だが、この『チェス奇譚』は、ユダヤ人として故国を逃れた自身が投影された短編だ。豪華客船のなかの試合で世界チャンピオンと引き分けに持ち込んだ紳士は、オーストリアから亡命をしたユダヤ人という設定である。
公証人として他のユダヤ人の巨万の富を管理していたその紳士は、オーストリアがドイツに併合されたその夜逮捕され、ホテル・メトロポールというナチスが接収したホテルに時計をとりあげられ軟禁をされる。402号室には、何も読むものがない。話す人もいない。一日に一回、ドイツ兵がスープとパンを運んでくるが、彼は一言も言葉を発しない。
時折、排気口を伝わって悲鳴が遠く聞こえてくる。他の部屋で軟禁されている者が、拷問をうけているのだろうか。
威厳に満ちた公証人だった彼は、時間をとりあげられ、読むものをとりあげられ、次第に狂っていく。ころあいをみて、秘密警察のベームが執務室に呼び出し、スイスの銀行にあずけた富豪たちの秘密口座の暗証番号を教えるよう、うながす。話せば、外に出られる、と。
時折あるその呼び出しは、意味もなく控室で2時間も3時間も待たされる。それがまた彼の神経を苛むのだが、そこで彼は、監視の隙をついて、本を一冊くすねることに成功するのだ。
独房とも言える402号室に帰ったとき、その本をいさんでとりだし読もうとするが、それはチェスの過去の世界戦の棋譜がただ収録されたものだった。
心底うちのめされるのだが、それからチェスを知らない彼は、一つ一つルールを咀嚼しつつ、過去の世界戦を、頭の中で何度も何度も繰り返すのだ。
窓は防火壁で塞がれ昼も夜もわからない。その部屋でひとり白と黒にわかれて無限のゲームを繰り返す。