「その手は駄目だ。敵は罠をしかけた。g8からh7へキングを移せ」
豪華客船のバーで、チェスの世界チャンピオンが13面指しだろうか、大勢の相手とチェスをしている。チャンピオンは次々に盤面の向こう側の相手をくだしていき、最後の一人がある手を指そうとしたとき、後ろから思わず声をかけた中年の紳士がいた。
指し手はその船のオーナーだったが、この中年の紳士の言うとおりにそれ以降の手をうっていき、なんとその世界チャンピオンとの勝負を引き分けに持ち込む。
オーナーは信じられないというようにその紳士の素性を訊ねる。さぞかし高名な指し手であろう、と。ところが紳士はこう言うのだ。
「本当に駒に触れたのは人生で今日が初めてだ」
チェスの話が好きだ。
天才的チェスプレイヤーとしてソ連のボリス・スパスキーを世界選手権で破って冷戦のヒーローとして名を馳せたにもかかわらず、その後ぷつりと消息を絶ったボビー・フィッシャーについては、出版社にいた時代にノンフィクションをひとつつくっているし(『完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯』)、8月末に文庫版が出る『アルツハイマー征服』の中で重要な役割をはたす天才科学者も、チェスの名手だ。
その天才科学者に、新宿のパークハイアットホテルの朝食に招かれたが、静かなラウンジにつくと、彼がポケットチェスを出して朝陽さすテーブルで一人チェスをしているのを見て痺れたこともある。
ということもあって、先週金曜日(21日)に公開の始まった「ナチスに仕掛けたチェスゲーム」という映画を観た。冒頭は、その映画からの一シーンである。
この映画は、オーストリアからの亡命ユダヤ人作家だったシュテファン・ツヴァイクの最後の作品『チェス奇譚』(杉山有紀子訳)を原作にしている。
ツヴァイクは、ナチスが台頭するオーストリアを1934年に逃れブラジルに滞在していた。リオデジャネイロでこの『チェス奇譚』の原稿を書き上げるとそのタイプ原稿を一通は、ニューヨークの出版社、一通はユダヤ系出版社、そして一通をリオの翻訳者宛に投函し、その夜、妻と一緒に服毒自殺をとげている。
日本ではみすず書房が全集を出していたが、忘れられた作家と言っていい。私も、実はまったく知らなかった。今回、映画をみて、初めて幻戯書房から出た新訳を読んだが衝撃をうけた。