『ナチスに仕掛けたチェスゲーム』より。ドイツ映画。シネマート新宿他で公開中。(c)2021 WALKER+WORM FILM, DOR FILM, STUDIOCANAL FILM, ARD DEGETO, BAYERISCHER RUNDFUNK
『ナチスに仕掛けたチェスゲーム』より。ドイツ映画。シネマート新宿他で公開中。(c)2021 WALKER+WORM FILM, DOR FILM, STUDIOCANAL FILM, ARD DEGETO, BAYERISCHER RUNDFUNK
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「その手は駄目だ。敵は罠をしかけた。g8からh7へキングを移せ」

 豪華客船のバーで、チェスの世界チャンピオンが13面指しだろうか、大勢の相手とチェスをしている。チャンピオンは次々に盤面の向こう側の相手をくだしていき、最後の一人がある手を指そうとしたとき、後ろから思わず声をかけた中年の紳士がいた。

 指し手はその船のオーナーだったが、この中年の紳士の言うとおりにそれ以降の手をうっていき、なんとその世界チャンピオンとの勝負を引き分けに持ち込む。

 オーナーは信じられないというようにその紳士の素性を訊ねる。さぞかし高名な指し手であろう、と。ところが紳士はこう言うのだ。

「本当に駒に触れたのは人生で今日が初めてだ」

 チェスの話が好きだ。

 天才的チェスプレイヤーとしてソ連のボリス・スパスキーを世界選手権で破って冷戦のヒーローとして名を馳せたにもかかわらず、その後ぷつりと消息を絶ったボビー・フィッシャーについては、出版社にいた時代にノンフィクションをひとつつくっているし(『完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯』)、8月末に文庫版が出る『アルツハイマー征服』の中で重要な役割をはたす天才科学者も、チェスの名手だ。

 その天才科学者に、新宿のパークハイアットホテルの朝食に招かれたが、静かなラウンジにつくと、彼がポケットチェスを出して朝陽さすテーブルで一人チェスをしているのを見て痺れたこともある。

 ということもあって、先週金曜日(21日)に公開の始まった「ナチスに仕掛けたチェスゲーム」という映画を観た。冒頭は、その映画からの一シーンである。

 この映画は、オーストリアからの亡命ユダヤ人作家だったシュテファン・ツヴァイクの最後の作品『チェス奇譚』(杉山有紀子訳)を原作にしている。

 ツヴァイクは、ナチスが台頭するオーストリアを1934年に逃れブラジルに滞在していた。リオデジャネイロでこの『チェス奇譚』の原稿を書き上げるとそのタイプ原稿を一通は、ニューヨークの出版社、一通はユダヤ系出版社、そして一通をリオの翻訳者宛に投函し、その夜、妻と一緒に服毒自殺をとげている。

 日本ではみすず書房が全集を出していたが、忘れられた作家と言っていい。私も、実はまったく知らなかった。今回、映画をみて、初めて幻戯書房から出た新訳を読んだが衝撃をうけた。

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下山進

下山進

1993年コロンビア大学ジャーナリズム・スクール国際報道上級課程修了。文藝春秋で長くノンフィクションの編集者をつとめた。聖心女子大学現代教養学部非常勤講師。2018年より、慶應義塾大学総合政策学部特別招聘教授として「2050年のメディア」をテーマにした調査型の講座を開講、その調査の成果を翌年『2050年のメディア』(文藝春秋、2019年)として上梓した。著書に『アメリカ・ジャーナリズム』(丸善、1995年)、『勝負の分かれ目』(KADOKAWA、2002年)、『アルツハイマー征服』(KADOKAWA、2021年)、『2050年のジャーナリスト』(毎日新聞出版、2021年)。標準療法以降のがんの治療法の開発史『がん征服』(新潮社)が発売になった。元上智大新聞学科非常勤講師。

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