■動詞の小説家 司馬遼太郎
1971(昭和46)年1月に連載が始まった『街道をゆく』は、1996(平成8)年2月の作家の急逝によって、終わりを告げないまま、終わった。文字どおりのライフワークである。
『竜馬がゆく』と響き合う現在形の動詞のタイトルにふさわしく、司馬遼太郎は、連載第2回でこう書いている。
<この連載は、道を歩きながらひょっとして日本人の祖形のようなものが嗅(か)げるならばというかぼそい期待をもちながら歩いている>
現在形の動詞の<歩いている>。そこがいい。
『街道をゆく』は、哲学者・鶴見俊輔の言葉を借りれば、<道端に井戸を見つけてる感じなんですね。その井戸のなかから、明治維新以前のものが流れて出てきてるのを汲んでる>という紀行文──街道の「いま」を歩きながら、遠い過去へと思いを馳せる旅である。
おのずと思索する時間は増え、学術的な記述も多くなるはずなのだが、司馬遼太郎は「論」の隘路に陥ることなく、飄々と街道を歩きつづける。
動詞なのだ。常に動いている。文章はどこまでも平明で、簡潔。随所で用いられる現在形が、古文書や碑文に寄り道していた筆者と読者を、よきタイミングで「いま」に引き戻してくれる。
このきびきびとした軽やかなスタイル、単行本や文庫本でもいいが、最も活きるのは、新聞や週刊誌のように一段あたりの文字数が短いレイアウトのときだろう。
さくさく読める。歩くように読める。そして、名調子に導かれて歩いているうちに、読者は「日本人とはなにか」という問いが自分の胸にも芽吹いていることに気づかされるのだ。
さらに、判型の大きな週刊誌には、挿絵や写真を(時にはグラビアとも連動しつつ)効果的に使える強みがある。
『街道をゆく』も、そう。歴代の挿画家は、須田剋太、桑野博利、安野光雅の3人だが、連載開始から1990(平成2)年2月まで20年近くコンビを組んだ須田剋太の絵が、読者には最も馴染み深いだろう。
なにより、このコンビ、相手への深い敬愛と信頼とともに長い旅を続けてきたのだ。