開高健
開高健

 思えば、『ブラック・アングル』の連載が始まった1976(昭和51)年はロッキード事件の年、すなわち田中角栄の年だった。

 のちに山藤さんは連載スタート時を振り返って、こう書いている。

<世紀の政界スキャンダルに大衆の耳目が集中した時に、ニュース漫画が始まったことは幸運だった。/政治漫画は登場人物が面白くないとどうにもならない。面白いとは、人間臭ふんぷんとしたアクの強さにある。(略)ロッキード事件、およびその周辺には、かの田中角栄氏を筆頭としてたくさんの“人物”が登場した>

 新連載のタイミングと、すこぶる刺激的な「いま」との邂逅。これこそが、「いま」と切り結ぶ連載の醍醐味だろう。

■部員の夏休みが開高健を変えた

 さまざまな「いま」があり、さまざまな書き手がいる。だからこそ、この「いま」を、この書き手が描くという組み合わせの妙──ワインで言うなら料理とのマリアージュが、一期一会の味わいとなるのだ。

 しかも、このマリアージュ、必ずしも計算ずくでコトが運ばれているわけではない。そこが面白いのである。

 たとえば──。

「『週刊朝日』編集部員の夏休みが文学に与えた多大なる影響」というお話、ご存じですか?

1964年の東京オリンピック閉会式を観覧する開高健
1964年の東京オリンピック閉会式を観覧する開高健

 1963(昭和38)年10月から翌年11月まで連載された開高健の『ずばり東京』は、五輪開催を目前に控えた東京の「いま」をさまざまな文体を駆使して活写した傑作ルポルタージュである。

 じつは、開高は同作が始まる直前までルポルタージュ『日本人の遊び場』を連載していた。一つの雑誌で同じ作家の連載がシームレスで続くのは、きわめて異例なのだが……その経緯は、『「週刊朝日」の昭和史』での編集長の回想によると、以下のとおり。

 当時の「週刊朝日」は編集部員が交代で夏休みを取るために、夏場には社外筆者のページを増やすのが通例だった。

 1963年に編集部が白羽の矢を立てた書き手は、1月に直木賞を受賞した山口瞳。しかし、氏は連載を固辞し、大江健三郎や石原慎太郎と並ぶ純文学の旗手・開高健を推薦したのである。

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