短期連載の『日本人の遊び場』はたちまち評判となり、開高はノンフィクションの世界でも一躍注目株となった。「週刊朝日」も手放したくない。ならば、間を置かずに次の連載を……というわけで始まったのが、『ずばり東京』だったのだ。
五輪前夜の東京という「いま」と、文学の最前線に立つ作家とのマリアージュである。人気が出ないはずがない。
大好評のうちに1年間の連載が終わり、編集部が「お礼のボーナスを差し上げたい」と申し出ると(いいなア)、開高はすぐさま答えた。
「ベトナム戦争の実相を見てみたい」
連載終了の2週間後にベトナムへ旅立った開高は、現地でゲリラの襲撃を受けて九死に一生を得た。200人の部隊のうち生き残ったのは、わずか17人だったという。
その壮絶な体験が、1965(昭和40)年1月から3月にかけて「週刊朝日」に連載されたルポ『ベトナム戦記』を生み、さらには開高の代表作にして戦後文学史上に残る名作『輝ける闇』『夏の闇』へとつながった。
『ずばり東京』がなければ、ベトナム取材はなく、『輝ける闇』『夏の闇』も生まれなかった。さらに「もしも」をさかのぼっていけば、もしも山口瞳が夏場の連載を引き受けていたら……もしも「週刊朝日」が部員に夏休みなど取らせないブラックな職場だったら……。
この話には後日譚もある。こちらは『ずばり東京』の担当編集者による講演録から。
「週刊朝日」編集部は、ボーナスが仇になって開高健を命からがらの目に遭わせてしまったお詫びに、あらためての慰労を考えた(ホント、いい時代だったんだなア)。そうして始まったのが、カネのかかる釣り紀行『フィッシュ・オン』(1970年連載)だという。
それが、開高文学の後期の柱となった『オーパ!』などの世界釣り紀行につながるのだから、文学史とは、まったくもって人間臭いものではありませんか。
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作家の仕事場は、もちろん書斎である。作家の作家たる所以は、創作、フィクションの作品を書くこと。これもまた言うまでもない。
そんな作家たちが書斎の外に出たら、どんな目で「いま」を見て、どんな足取りで「いま」をたどるのか。どんな人に声をかけ、どんな問いを放つのか……。
「書斎から出た作家」の魅力を、「週刊朝日」誌上で1960年代に教えてくれたのが開高健なら、1970年代以降は、間違いなく司馬遼太郎の独壇場になるだろう。