こうした定性評価を徹底的に加点主義で教員が行なえば、児童の自己肯定感が上がることは間違いない。自分だけでなく他者に対しても長所に目が向くようになるので、ダイバーシティを加速する文化が学校から醸成されるかもしれない。

 ただし、保護者にとっては不安だろう。算数の計算力や国語での文章能力が、学年集団の中でどれほど達成されているかが、わからないわけだ。とくに保護者は5段階評価で育った世代が専(もっぱ)らだからなおさらだ。「よくできる」「できる」「もう少し」のABC評価でもそれは曖昧だったが、「通知表」を出さないという行為は覚悟がいる。教員だって不安だろう。自分の学習指導が利いているのかどうか、毎回の小テストでわかるだろうとは言いながら、定性評価を自分の主観でどの程度していいのか、確信がないはずだ。

 一方で、偏差値で示される領域が依然として存在する。受験である。数字で示される偏差値や学力については、中学受験をする児童と親には通っている進学塾からこれでもかというほどフィードバックがあるはずだ。しかもそのデータは、学内ではなく都道府県や全国レベルの他流試合だ。頑張り方が曖昧な絶対評価でもなく、相対評価でランキングも出てしまう。

 小学校高学年からは、そうした塾との役割分担を前提にして割り切る手もある。なぜなら中学受験は一発勝負であり、小学校の内申書が功を奏するわけではないからだ。

 中学高校については悩みどころだ。とくに高校は大学進学の問題が大きい。

 入学試験を受けないで大学に進学する高校生が半分を超える現状に鑑みると、系列校からの内部進学、指定校推薦、総合型選抜(旧AO入試)のそれぞれで、高校での成績や部活動を含めた学業の評価書の提出を大学側は望む。面接やプレゼン資料、小論文だけでは合否の判定が難しいからだ。高校側が「信用できる人物か」を保証することで、入試事務を軽くしている事情がある。

 中学から高校への進学でも、一貫校でない場合は同じ力学が働く。

 このところ教育委員会が掲げる研修会のテーマに、児童生徒の評価に関わる内容が数多く見受けられる。私は、評価に「興味・関心」が入ってきた頃から、ウソくささを感じるようになった。つまらない授業をしている教員側が、児童生徒がそれに対して抱く「興味・関心」の度合いを評価するなんておかしいのではないか、と。

 今でも、過剰に評価を細かくする傾向には賛成できない。数値の細分化で精度が上がるような気もするが、しょせん人間による評価で細かなデータを積み上げても、そこには作為が重なるだけではないか。 

 なお、「通知表」をなくすという選択は、各校の校長権限でできることを附言しておく。

●藤原和博(ふじはら・かずひろ)
1955年、東京都生まれ。教育改革実践家。78年、東京大学経済学部卒業後、現在の株式会社リクルート入社。東京営業統括部長、新規事業担当部長などを歴任し、93年よりヨーロッパ駐在、96年、同社の初代フェローとなる。2003~08年、都内では義務教育初の民間校長として杉並区立和田中学校の校長を務める。16~18年、奈良市立一条高等学校校長。21年、オンライン寺子屋「朝礼だけの学校」を開校する。 主著に『10年後、君に仕事はあるのか?─未来を生きるための「雇われる力」』(ダイヤモンド社)、『坂の上の坂』(ポプラ社)、『60歳からの教科書─お金・家族・死のルール』(朝日新書)など累計160万部。ちくま文庫から「人生の教科書」コレクションを刊行。詳しくは「よのなかnet」へ。

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