教員は真面目に教務に取り組んでいるのに、なぜ、その歯車が時代の変化とともに噛みあわなくなったのか。教育改革実践家の藤原和博氏は、新著『学校がウソくさい 新時代の教育改造ルール』(朝日新書)で、学校の存在感は全教育機関やサービスのおよそ2割にすぎないのだから、逆にもっと自由な教育を先生たちに許してもいいと指摘する。「先生とは、児童生徒のできないことをできるように、わからないことをわかるようにする仕事をしている人たちである」と定義し、責任が無限に増えていく中、教員がしなければならないことに集中すべきだと説く。
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■究極の選択は評価を止めてしまうこと
そもそもである。そもそも現在の教員の器で、将来どう育つかわからない子どもの評価をしていいのか、という疑問がある。少なくとも今現在から10年は、AI×ロボット技術が加速度的に進み、超が付くほどのネットワーク社会が進展して、社会が根底から変わる。
少なくともスマホを利用する50億人の脳がクラウドにつながり、そこにChatGPTのようなAIや、家庭で動き回るロボット「お掃除くん」や車が進化した「移動くん」がつながってくる。
そんな社会は誰もが未体験なのに、子どもたちの能力を正当に評価できるのだろうか。
評価できるとすれば、従来型の狭い意味での学力で、正答率という尺度くらいではなかろうか。優しさや親切さなどは評価できるかもしれないが、これからの時代を拓くクリエイティブ能力や創造性について、学校で評価できるはずはないと思う。
だから、理想を言えば、小学校段階ではすべての成績評価を止めて、日常的に教員が気づいたことをスマホから家庭向け掲示板にフィードバックしていけばいい。評価ではなくむしろ、最も身近な教育者による発見である。この子はこんな能力がある。この子はこうした感性に秀でている。先生でなければ気づかないことは、必ずある。