捕手はリードや強肩など守備面が注目されがちだが、野村克也、田淵幸一、阿部慎之助らのように、打撃面でも主軸を担った“強打の捕手”もいる。
その一方で、プロでは不発に終わった捕手の大砲候補も少なくない。
プロ入り後、打力を生かすため、捕手から内、外野手にコンバートされ、成功した選手も多いが、逆パターンで内野手から捕手にコンバートされたのが、内之倉隆志だ。
鹿児島実時代は春夏の甲子園で4本塁打、高校通算39本塁打を記録。1990年にドラフト2位でダイエーに入団したが、パンチ力は非凡ながら、三塁手としては脚力に難があり、1軍に定着できずにいた。
93年のシーズン途中、才能が埋もれているのを惜しんだ有本義明2軍監督が、内野手ほど脚力を必要とせず、強肩を生かせる捕手へのコンバートを勧めた。
当初は難色を示した内之倉も、「甲子園のスターが全然ダメでは、君自身が一番寂しいはずだ」と説得されると、プロテクターやミットを発注し、捕手の大砲に挑戦した。
ところが、皮肉にも翌94年のドラフトで、高校通算70本塁打の捕手・城島健司が1位指名されたことで、運命が変わる。
96年、内之倉はウエスタンで17本塁打、48打点を記録したが、城島もウエスタン新の25本塁打、63打点と内之倉を上回る成績を残し、翌97年から吉永幸一郎に代わって1軍の正捕手に定着した。
正捕手への道が閉ざされた形になった内之倉は「試合に出られるなら(ポジションは)どこでもいいです」と前向きに出場機会を求め、8番サードで出場した98年7月27日の近鉄戦で、6回に香田勲男から8年目のプロ初アーチとなる同点ソロ。同年は第2の捕手として46試合でマスクをかぶり、指名打者で出場した9月15日の西武戦でも2号ソロを放ったが、その後は出番が減り、これが現役最後の本塁打となった。
02年限りで現役を引退した内之倉は、ブルペン捕手としてチームに残り、リーグきっての強力投手陣を支えつづけている。