西武の山川」と言うと、今は渦中の人となってしまった本塁打王3度の山川穂高を連想する人が多いだろう。

 だが、実は球団創設1年目の1979年にも、山川猛という一発長打が魅力の新人捕手がいた。

 その名が初めてクローズアップされたのは、東洋大姫路時代の72年夏に出場した甲子園だった。

 1回戦の習志野戦、掛布雅之(元阪神)のタイムリーなどで2点を先行された1回裏、2死満塁で打席に立った山川は、2ストライクと追い込まれながら、3球目のカーブをジャストミート。打球はラッキーゾーンを越えて左翼席に達する逆転満塁本塁打となった。大会史上10人目のグランドスラムでもあった。

 駒大時代には森繁和とバッテリーを組んだ山川は、西川物産を経て、ドラフト3位で“ドラ1”森とともに西武に入団する。

 だが、1年目にイースタンで5本塁打を記録した強打の捕手も、守備の不安がネックとなり、在籍4年間で1軍出場26試合にとどまった。

 83年、清家政和との交換トレードで阪神に移籍すると、正捕手不在のチーム事情も追い風となり、翌84年にチャンスが巡ってきた。

 6月27日のヤクルト戦、2点リードの7回2死満塁、山川は12年前と同じ甲子園で、高野光からダメ押しとなるプロ初の満塁弾。同年は自己最多の114試合でマスクをかぶり、10本塁打を記録した。

 だが、「当たれば飛ぶ」大物打ちも打率.193と確実性に欠け、せっかく掴んだ正捕手の座も、木戸克彦に奪われてしまう。翌85年は、第2の捕手として35試合でマスクをかぶり、チームの21年ぶりVに貢献した。

 2軍では本塁打王争いを演じたのに、“未完の大砲”で終わったのが、小牧雄一だ。

 鹿児島商時代の85年夏の県大会では、準決勝まで16打数7安打11打点。鹿児島商工(現樟南)との決勝戦でも、3回にバックスクリーン直撃の勝ち越し3ランを放ったが、7対9と逆転負けし、目前で甲子園を逃した。

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若きヤクルト岩村と本塁打王争い