まもなく、花柄の服を着た小柄の女性が寺に現れた。石牟礼道子さんだった。

 石牟礼さんの名は『苦海浄土』とともに記憶していたので、突然その人を目の前にして言葉が出なかった。渡辺さんとの付き合いは、もう三〇年近くになるという。当初は渡辺さんが編集者、石牟礼さんが著者という関係だったが、水俣病闘争が本格化するにつれ、二人の関係は同志的なものになってゆく。

 石牟礼さんが「文字というものを持たなかったいにしえの人は、この風のゆらめきをどのように感じとったのでしょうね」と言うと、渡辺さんが「この人はね、文化人類学の用語でいう無文字社会にずっと関心を持っているのですよ」と解説する。そんなやりとりがしばらく続いた。

 ずっと聞いていたかったが、本16時35分発の東京ゆき寝台特急「はやぶさ」の切符を持っていた。それを告げると、渡辺さんは「上京するとき、『はやぶさ』に何度も乗ったものだ」と石牟礼さんの方を見ながら言った。東京と九州を結ぶ寝台特急はいまや全廃されたが、当時はまだ五本あった。寝台特急が水俣病闘争で大きな役割を果たしてきたのかと思うと、感慨を禁じえなかった。

 後日、月刊誌を送ると石牟礼さんから返事が来た。「お若いあなたの思考のゆく奥の方を、かいま見たと思いました。ますますのご精進をお祈りいたします」。原稿用紙に升目を無視した伸びやかな字が躍っていた。

※列車やバスの発着時刻などの表記は算用数字とした