佐賀工・江口孝義
佐賀工・江口孝義
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 甲子園の大舞台でスカウトの目を見張らせる快投を演じ、その完成度の高さから、プロでも活躍すると思われたのに、故障などから大成できずに終わった投手も少なくない。

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「甲子園史上最も美しい」と絶賛されたしなやかなフォームと抜群の制球力で将来性を高く評価されながら、NPBでは通算1勝で終わったのが、東亜学園の川島堅だ。

 1987年夏、2年連続で甲子園にやって来た川島は、準々決勝で北嵯峨を14奪三振完封するなど、伸びのある速球と切れのあるカーブを武器に4強入りの原動力になった。

 同年の甲子園出場組には、伊良部秀輝(尽誠学園)、橋本清(PL学園)、盛田幸妃(函館有斗)、上原晃(沖縄水産)らプロ注目の好投手が目白押しだったが、川島はその中でも「即戦力ナンバーワン」と評され、「1年目から10勝も」の声も聞かれるほどだった。

 広島にドラフト1位で入団した川島は、翌88年9月16日の阪神戦でリリーフとしてプロデビューをはたす。

 2度目の先発となった10月18日のヤクルト戦では、8回まで3失点に抑え、9回2死から池山隆寛の二塁打でサヨナラ負けを喫したが、2年目の89年4月29日の阪神戦で、9回を5安打8奪三振1失点で完投し、うれしいプロ初勝利。「懐かしい甲子園でしょ。お客さんもたくさん入って。前半は楽しめたけど、(6回に失点)後半はきつかったですよ」と思い出の地での大きな1勝に感無量だった。

 だが、3年目にコーチの指示でスリークォーターにモデルチェンジしたことが裏目となり、右肘を痛めてしまう。手術後、1年間リハビリに努めても球威は戻らず、94年オフに戦力外通告を受けた。翌95年に台湾・時報で1年間プレーしたあと、野球にけじめをつけて現役引退。NPB通算成績は18試合に登板し、1勝4敗だった。

 台湾から帰国後、現役時代に故障で苦しんだ経験から、「ケガに悩む球児たちに思いきりプレーさせてあげたい」と柔道整復師の資格を取得。現在は整骨院の院長を務めている。

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