73年は死のロードで6勝7敗1分と6年ぶりに負け越したあと、終盤の巻き返しで9年ぶりの優勝をほぼ手中にしながら、シーズン最終戦で巨人に敗れ、まさかのV逸。もしロードで勝ち越していれば、数字上の計算では優勝していたことから、甲子園に帰って来た直後の8月下旬以降に3勝7敗1分と大崩れしたことも含めて、「死のロードの失速が痛かった」という話になった。
そして、翌74年は、死のロードがV逸に決定的な影響をもたらす。
同年の阪神は8月4日の時点で42勝30敗6分と首位を独走。2位・中日に3ゲーム、3位・巨人に4ゲーム差をつけていた。
ところが、8月6日から始まったロードで3勝11敗1分と大きく負け越し、首位・巨人に5ゲーム差の3位へと転落してしまう。
すっかり歯車が狂った阪神は、9月上旬にも7連敗。さらに9月下旬から10月上旬にかけて8連敗を喫し、4位でシーズンを終えた。金田正泰監督と主力選手の対立が激化して、チームワークが乱れたという事情もあったが、ライバル・巨人の連覇が途切れた年にも優勝できなかったのは、阪神ファンにとって痛恨の一事だった。
その後も76年は6勝10敗2分、77年は3勝8敗1分、球団史上初の最下位に沈んだ78年も5勝11敗3分と、死のロードは“鬼門”でありつづけた。
そんななか、85年は遠征中の8月12日に中埜肇球団社長が日航機墜落事故で亡くなるという悲劇のショックから、直後6連敗を喫したが、チーム一丸となって悲しみを乗り越え、ロードを7勝7敗の五分で乗り切ったことが、21年ぶりの優勝につながった。
また、92年も、80年から昨季までの40年余りで最も勝率の良い10勝6敗を記録し、シーズン終盤までV争いを演じている。
ロード直前まで首位・ヤクルトと1.5ゲーム差の2位につけていた阪神は、最初の関門・ヤクルトとの3連戦には1勝2敗と負け越したものの、直後の3カードをいずれも勝ち越し、ロード最終戦となった神戸グリーンスタジアムでの広島戦にも連勝。貯金をシーズン最多の「9」に増やした。
だが、ヤクルトも同時期を12勝6敗と阪神を上回る好成績を挙げたことから、ゲーム差は2.5に開いてしまう。同年のV逸は、そんなめぐり合わせの悪さも影響していたように思える。