なお今井氏は内政だけでなく外交をも掌握しようとした。二階俊博幹事長(当時)が17年5月に訪中した際に持参した首相親書を巡る騒動だ。

 安倍首相(当時)から習近平国家主席へ渡される首相親書を作成する上で、中国が主張する一帯一路政策に懸念を抱いていた外務省は、「自由と民主主義に貢献する一帯一路を支持する」と、厳格な条件を付け、谷内正太郎・国家安全保障局長(当時)の決裁を経ていた。

 にもかかわらず二階氏に親書を託す直前に、中国が主導するアジアインフラ投資銀行(AIIB)の参加に積極的な今井氏が、「安倍首相の意向だ」と条件を削除し、谷内氏を激怒させている。

 このように、押しの強い今井氏が首相秘書官を務めたゆえに、第2次安倍政権は7年8カ月も続き、井上義行氏が秘書官を務めた第1次安倍政権はわずか1年で崩壊。政権の寿命は首相秘書官の力量次第で決まるのかもしれない。

 ならば小泉政権が5年5カ月も続いたのも、秘書官を務めた飯島勲氏の力量ゆえといえるだろう。

 飯島氏はそのメディア戦略や情報操作でもって、小泉純一郎首相(当時)の人気を作り上げた。飯島氏の手法は大手新聞社やテレビなどの媒体のみならず、雑誌など記者クラブに所属しない媒体にも深く関与し、広く世論を誘導していくものだった。

 また飯島氏は官邸に各省庁連絡室を設置し、秘書官を出している財務省、外務省、経産省、警察庁以外の省庁からもスタッフを常駐させ、霞が関を掌握した。その飯島氏と犬猿の仲だったのは小泉政権で04年まで官房長官を務めた福田康夫氏で、2人は激しく対立した。週刊誌に掲載された福田氏のスキャンダルの情報源は飯島氏だったといわれている。

 その福田氏が首相になったとき、秘書官に就任したのは長男の達夫氏だった。そもそも福田氏自身も父である福田赳夫元首相の秘書官を務め、その後継として1990年の衆院選で当選。2012年には達夫氏に選挙区を譲っている。これらは帝王教育及び国政進出に際しての箔(はく)付けに他ならない。

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