■6歳のときに日本に移住 保育園にサングラスで登園
どの家庭にもダーチャと呼ばれる菜園があった。ブラス一家は土日や夏休みにダーチャに出向き、畑を耕したり、鶏卵を焼いて食べたりした。トマトを栽培して地下室に備蓄し、ジャガイモづくりの得意な家と物々交換し、飢えをしのいだ。
国の混乱のさなか、両親が離婚。母親は民族舞踊団に所属し、世界各地を回る歌手だった。来日公演時、ブラスの新しい父親と出会う。父親は母親の公演期間中、連日、花束を持参したという。母親がロシアに帰国した際、新しい父親もブラスの前に現れた。
「『これが日本のもんやで』って、玩具や菓子をいっぱい持ってきたのを覚えてる。ゴジラの玩具、ラジコン、チョコ、マイクのケースからラムネを取り出すお菓子。近所じゅうに自慢して回った」
一家の日本移住について、葛藤はなかった。時計や車など、あらゆるものの品質が保証された最先端の国。6歳のブラスはそれを知っていた。
ハバロフスクから新潟へ飛び、伊丹空港へ。採石業を営む姫路の父親の家へ向かう車中で流れていたのは、宇多田ヒカル「Automatic」だ。彼にとって最初の日本の追憶は、この曲とともにある。
保育園の初日、ブラスはサングラスをかけて登園した。なめられたくない気持ち、それから、単純に日差しがまぶしかったこともある。当然、園児らは度肝を抜かれたが、美味しそうだからと工作用の糊(のり)を口に入れようとしたブラスの手を、慌てて止めた。どうやらこの子は何もわからない。そう悟った園児らは、手取り足取りブラスの面倒を見た。この結果、日本語をみるみる習得した。
公立小学校へ進んだブラスは、心に決めたことがある。目立たないようにする、ということだ。
「〇〇くんが赤信号を渡るところを見ました」
「△△さんが掃除をサボっていました」
下校直前、教室内で「チクり合い」の場があった。毎回、自分の名前が出ることに気づいてから、地味に過ごすことを心がけた。姫路城近くの動物園に向かっては、昭和の古い遊具で遊んだり、城の隣にある庭園で野良猫とたわむれたりした。
小学生の時点ですでに、女の子ではなく男の子を好きになることに気づいていた。中学1年のとき、1学年上の女性の先輩に告白され、「男女の好きという気持ち」がわかるかも、と思ったが、恋愛対象として捉えることはできなかった。
これまでの「地味に徹する」姿勢の反動からか、中学2年になると、自分の納得がいかないことに対し、反発心が芽生えるようになった。