バース退団後の89年に44番を継承したのは、セシル・フィルダーだ。

 いきなり38本塁打とバースに匹敵する破壊力を見せつけながら、シーズン終盤、三振を喫した腹いせに地面に叩きつけたバットが跳ね返ってきて、右手を骨折。残り24試合を棒に振り、ほぼ手中にしていた本塁打王を逃したトホホなエピソードもよく知られている。

 オフに5年契約の要求を受け入れられず、たった1年で退団も、翌90年、デトロイト・タイガースでメジャー復帰をはたすと、2年連続本塁打王に輝くなど、メジャーを代表する強打者に。もし阪神に残留していたら、「虎の44番」としてバースと並び称され、90年代の阪神の“負の歴史”も変わっていたかもしれない。

 フィルダー退団後、1シーズン欠番となった「44」は、91年、巨人から移籍してきた外野手の石井雅博がつけた。

 自らトレードを志願して虎の一員になった石井だったが、巨人時代同様、ケガに泣き、阪神では試合に出場することなくユニフォームを脱いだ。

 再び欠番となった44番は、92年にドラフト7位で入団した山下和輝に受け継がれる。

 天理高時代の86年夏に4番打者として同校初の全国制覇に貢献。プリンスホテル時代にも推定150メートルの特大弾を放った“天下茶屋のバース”も、プロ5年間で1軍出場4試合、通算5打数1安打0打点と愛称に見合う結果を残せなかった。

 97年、山下と入れ替わりで44番をつけたのが、フィル・ハイアットだ。

 前年、米3Aで42本塁打、119打点を記録する一方、三振もリーグ最多の180。「当たれば飛ぶが、三振も多い」という大型扇風機のイメージどおり、出場67試合、打率.204、11本塁打、64三振に終わり、1年でお払い箱になった。

 翌98年、44番は広島を戦力外になり、阪神にテスト入団した捕手・吉本亮がつけた。

 44番時代の4年間は出場機会に恵まれなかったが、02年、心機一転「55」に変更すると、負傷離脱の正捕手・矢野輝弘に代わってキャリアハイの31試合に出場した。

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近年「44」で活躍した選手は?