笠谷:それはまさしく、家康政治の大きな特徴といえるでしょう。もうひとつ、おっしゃったような家康の通俗的、一般的なイメージとして語られる、家康が内向きな重農主義で、信長のような国際派ではなかったという通念についても触れておきたい。これは完全に誤ったイメージでして、家康は外国との交易や文化的な交流に非常に積極的でした。
磯田:我々が思っているより、かなり早い段階から、家康は海外に目を向けています。「家康=江戸幕府」は、鎖国をしたイメージで語られることが多い。しかし、『歴史道』の読者にはご存じの方も多いと思いますが、鎖国という言葉自体は後の時代の言葉で、実態としては強固な管理貿易体制というべきものです。それが固められたのは三代将軍家光の時代で、家康自身は海外に非常に強い興味を持ち、外交顧問に三浦按針ことウィリアム・アダムスを起用する開かれた人物だったはずです。
笠谷:そこは強調する必要がありますね。家康の内向き、鎖国、重農主義というステレオタイプのイメージは、ぜひとも変える必要がある。実は、家康が構築した国際関係は、明治以前の前近代においては、もっとも多いんです。
皮切りとなったのは朝鮮外交。秀吉の朝鮮出兵以後、国交は断絶していましたが、朝鮮の使節が捕虜の返還を求めて対馬にやってきます。ちょうど家康が征夷大将軍となったので、家康と交渉するよう、対馬の宗氏からアドバイスを受けて、京都にやってくる。家康の方でも、慶長の役の後始末をしたいという動機があった。そこで、講和条約の締結と友好関係の樹立の申し合わせができた。それが、朝鮮通信使の派遣ということにつながるわけです。朝鮮通信使は、家康が道を開いたといっても過言ではありません。
家康は中国外交も考えていました。しかしこれは中国側が自国の年号を使うよう求めたために実現しませんでした。政府間の国交は復活しませんでしたが民間貿易は実現し、年間10隻くらいの中国船が日本に来るようになります。