(左から)秋山幸二、落合博満、古田敦也
(左から)秋山幸二、落合博満、古田敦也
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 第1回WBCが開催されたのが2006年。アマチュアの選手しか出場できなかった五輪で、プロ選手の参加が解禁されたのは00年シドニー五輪からだった。それ以前の時代は日米野球など親善試合がシーズンオフに開催されていたが、五輪やWBCのような真剣ムードには程遠かった。ユニホームも日本代表で統一されたものではなく、各球団のユニホームを着用していた。

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 もし、1980、90年代にWBCが開催されていたら、日本代表はどのような陣容になっていたか――。様々な意見があるため、ベストメンバーの定義は難しい。ひとくくりに80年代といっても80年と89年では、実力がピークを迎える選手も変わってくる。実績と印象度を加味した上で、新聞、テレビなどメディア関係者20人の意見を参考に80年代、90年代のスタメンを選定したが、いかがだろうか。(敬称略)

80年代の日本代表スタメン ※カッコ内は80年代の所属球団

(遊)石毛宏典(西武

(左)新井宏昌(南海、近鉄)

(中)秋山幸二(西武)

(三)落合博満(ロッテ中日

(一)清原和博(西武)

(指)門田博光(南海、オリックス

(右)山本浩二(広島)

(捕)伊東勤(西武)

(二)辻発彦(西武)

(投)江川卓(巨人

 80年代から90年代前半まで西武黄金期だったため、石毛、秋山、清原、伊東、辻と西武の選手が5人と大量選出になった。秋山は抜群の身体能力で「メジャーに最も近い日本人野手」と評された。俊足、強肩に加えて85年から9年連続30本塁打以上をマークし、長打力も圧巻だった。清原が高卒新人の86年に打率.304、31本塁打をマークした活躍は衝撃的だった。常勝西武の4番を張った功績はたたえられるべきだろう。秋山、清原を差し置いて4番に座るのが落合。ロッテで82、85、86年と史上唯一の3度の三冠王を獲得。「神主打法」から高い放物線で広角に本塁打を放つ技術は芸術の域だった。

 指名打者には門田を選出。79年に右アキレス腱断裂の大けがを負うが、その後にホームランアーティストになり本塁打王を3度獲得。40歳の88年に打率.311、44本塁打、125打点で本塁打王、打点王の2冠に輝く。史上最年長でMVPを受賞し、「不惑」がこの年の流行語となった。

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