■後悔の気持ちを引きずってきた
祖母から繰り返し電話がかかってきた。
「でも、ずっと電話を無視してしまった。自信がなくて、明るい声を聞かせられないみたいな。そうしたら、電話がかかってこなくなった。申し訳ないなっていう、後悔の気持ちを引きずってきた。自信が持てるようになったら堂々と、また祖父母と会いたいって思った。そういうことがありましたね。今回の撮影に入るまでには……」。
高重さんはその後、撮影スタジオを辞め、写真家のアシスタントを務めた後、独立した。
久しぶりに種子島を訪れたのは20年3月。祖母が転倒し、入院したことを知ったことがきっかけだった。
高重さんは自分に自信を持てるようになったのだろうか? そう尋ねると、「ああ、そういうことですね」と言い、笑った。
「あまり意識していなかったんですけれど、確かにそうです。その年からようやく少しずつ仕事が入ってくるようになった。自分の写真に対していろいろ意見を言ってくれる人も出てきた」
高重さんは種子島の美しい風景をカメラに収めた。島にはそれまでと変わらない暮らしがあった。
ところがその直後、退院した祖母が病院に通う際、車いすのまま乗り降りできる福祉車両が家の前に止められないという問題が持ち上がった。たったそれだけのことが祖父母の人生の最後を大きく変えていく。
「それで、島内のより便利なところに引っ越す、というようなことを父が話していました」
祖父母の引っ越し先が島内から福岡に変わるまでは、あっという間だった。
■死を区切りにしたくなかった
8月下旬、高重さんは祖父母の引っ越しを手伝うため、種子島に向かった。「親族のなかで一番自由に動けるのは自分でしたから」。引っ越し作業を手伝いながら高重さんは祖父母にレンズを向けた。
祖父母の島の暮らしが福岡に移った途端、祖母は誤飲で入院し、コロナ禍のさなか息を引き取った。祖父は叔母の家を出て見知らぬ福岡の街で1人暮らしを始めたが、しばらくして亡くなった。
この間、高重さんは2人を撮り続けてきたが、作品は祖父が亡くなる前に終わる。
「なんとなく祖父母を撮り始めて、こういう作品にするんだ、ということを決めていたわけではないんですが、『死』を作品の区切りにするのだけは嫌だって、撮影している間、ずっと思っていました。でないと、死ぬのを待っているような気がしてくるので」
思い浮かんだのは小説家・保坂和志の言葉だ。
「保坂さんが『小説というのは、どこで終わらせても成立するのが小説だ』みたいなことを言っていて、ああ、そうか、と思いました。それで、作品の終わり方を設定するのではなくて、ぶった切るように、これで終わり、っていうふうにした。なので、この作品に結論はないです」
(アサヒカメラ・米倉昭仁)
【MEMO】高重乃輔写真展「最後の旅」
ニコンサロン(東京・新宿) 2月28日~3月13日