撮影:高重乃輔
撮影:高重乃輔

■今まで会ってきた人とは違う

 高重さんは子どものころ、父親に連れられて種子島を訪れた。家のすぐそばから海が見えた。浜辺で遊び、車に揺られて帰ったことや島の自然が強く印象に残った。しかし、高重さんと祖父母の関係が深まったのはずっと後のことだ。

 大学2年の終わりの春休み、高重さんは合宿免許で種子島を訪れ、1カ月ほど祖父母と暮した。

「ちょっと恥ずかしい話なんですが、このとき祖父母とたくさん話をして、すごく好きだな、と思った。今まで会ってきた人とは何かが違う、面白い人たちだなあ、と感じた。その後、ぼくは大学を休学して半年ほどアフリカを旅したんですが、『これ持っていけ』と、10万円、ぼんとくれた。当時の自分にとってはとても大きな金額で、この人たちはすごい、やることがデカいなみたいな(笑)。それで、機会を見つけてちょこちょこと祖父母に会いに行くようになった」

 日本をたつ前、高重さんが抱いていたアフリカのイメージは「内戦が頻発し、さまざまな病気が蔓延する貧しい大陸」だった。しかし、現地を訪ねると、それとは異なるアフリカがあることを実感した。

「この旅がきっかけでルポライター、フォトジャーナリストという仕事に興味を持ちました」

 高重さんは帰国後、大学近くの喫茶店で小さな写真展を開いた。卒業後は新聞社に就職した。

「大学時代から文章の書き方を学んだ『週刊朝日』の元編集長・川村二郎さんから『記者であれば、写真も撮れる』と、聞いていたので、それで就職先に新聞社に選んだところがあります」

撮影:高重乃輔
撮影:高重乃輔

■こんなはずじゃなかった

 駆け出し記者の仕事は忙しく、種子島から足が遠のいた。

 しばらくぶりに祖父母の家を訪れたのは16年、28歳のときだった。新聞社を退社し、写真家を目指すことを決めていた。

「会社を辞めて写真の道を行こうと思った理由はいろいろありますが、自分の力で生きていく、っていうことをやってみたかった。かっこつけた言い方ですけれど、もともとフリーランスのフォトグラファーに憧れていたこともあって、だったら、辞めるのは今じゃないかって、思った」

 高重さんは続けた。

「祖父母の写真を撮り始めるのはまだ先なんですけれど、それまでずっと心に引っかかっていたのは、祖父母はぼくが新聞社に入ったことをとても喜んでくれたことです。でも、新聞社を辞めて、写真家になると言ったら、すごく心配された。それからはほとんど会わないような状況になってしまった」

 東京の撮影スタジオに勤め始めたものの、高重さんが任されたのはトイレ掃除のような仕事だった。それまで記者として警察署の幹部らに取材していた身にはこたえた。

「情けない話なんですが、ああ、こんなはずじゃなかったのに、みたいな。すごく自信をなくしてしまった。今では、その経験はすごくよかったと思いますが、当時、祖父母から『ああ、お前は何をやっているんだ』みたいなことを言われた」

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後悔の気持ちを引きずってきた